ナルミのオモイデ『その果実、未だ成らず』
1.
成未。なるみ。
お父さんとお母さんがわたしに付けてくれた、わたしだけの、お気に入りの名前だ。
「なにぼーっとしてんだよ。先生に怒られんぞ、汐川」
小学生の、ある一年。
三年生だったか、四年生だったか、もしかしたら五年生だったか、あんまりよくは覚えてないけど。
一年期中、わたしの隣の席には、ずっと同じ男の子が座っていた。
運命──を、期待した。
「……呼ばないで」
「は?」
「汐川、って呼ばないで」
「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ」
「なるみ」
上級生に虐められているところを助けられたり、大きな桜の樹の下で結婚を約束したり、放課後の校舎で妖怪退治を共闘したり──することもなく。
「はぁ?」
「なるみ、って呼んで」
わたしは、隣に座るその男の子のことを。
「……わかったよ、汐川」
「わかってないじゃん」
ふつうに、好きになった。
2.
少女漫画に憧れるのは、義務教育よりも女の子の義務だ。
「えっと……好きな人?」
中学生の頃。
休み時間の友達とのお喋りなんて、もっぱら恋愛の話題が尽きなかった。
「そ、好きな人。成未にはいないの?」
「わたしは……いない、かなあ」
「いたことは?」
「ない、かも」
"いない"と、"いたことがない"には、海よりも山よりも大きく深い隔たりがある。
好きの気持ちは、いともたやすく、かんたんに、消えてなくなってしまうのだと。
春の桜を見て思う。
「うん、なるほど。成未は、人間的に正しいね」
「正しい? わたしが?」
「うん。成未は正しい」
成未が、正しい。
彼女は重ねて、そう言った。繰り返し、反復し。
「だってさ、よく考えてみてよ。人が人を好きになるのって、傲慢だよね。あの子は好きであの子は嫌い、あいつはそう好きでもなくて、こいつは嫌いでもない──勝手に選別して、選抜して、取捨選択してさ」
同じ人間なのに。
「わたしたちは神様かよって──偉そうに。成未も、そう思うでしょ」
わたしは、そこまでは思わないよ。
「つまんない毎日に絶望した女の子に、白馬の王子様が救いの手を差し伸べる。わたしはそんなシンデレラストーリーが、大嫌いだ」
言わなかったのか、言えなかったのか、いまとなっては覚えていない。
ただ当時仲の良かった彼女──なんだか難しい名前だったような気はするけれどフルネームは覚えていない──がこのときわたしに投げかけたいくつかの言葉の一つが、わたし、汐川成未という人間を形造る大きな部品のひとつであったことは、間違いがない。
「人生なんて、川みたいなもんなのにさ。流れて、流されて、下っていくだけなのに」
「人生は川、か。そうかもね」
汐川。海の水のような川。頃合い計る潮流。
その名字は、わたしはあんまり好きじゃない。
なんで好きじゃないのかは、よく覚えていないけど。
「あ、でもね」
彼女のことも、この続きの会話も、この日の給食も、放課後の予定も。削れて丸くなった川下の石ころみたいに、わたしの脳にはほとんど刻まれていないけれど。
「白馬の王子様だけじゃなくって、救ってくれる相手が、女の子のお話だってあるよね──少女漫画って」
このときに見せたその子の、赤くなったかわいい表情だけは、なんでか、ちゃんと覚えてる。
3.
奇跡を待っているだけでは、その手になにも掴めはしない。
「ねえねえ、なにしてるのかな? なるみっちゃん!」
出相首約束。であいがしらいつか。
わたしの友達、公立高校一年一組出席番号十七番。
明るくて楽しくてかわいい女の子。
「なにって、なにもしてないよ?」
「なにもしてないなんてことはないでしょ! 息とか、溜息とか、喘息とか、生きてるだけで人間みんななにかしてるもん!」
今日はどうやら、とびきり元気な様子だ。
「息ばっかりじゃん……そんな、植物みたいなしかも喘息って。びょーきだし」
「病にかかるのも生きてる証拠! 悲観しちゃだめだよ、なるみっちゃん」
「不謹慎だよ、イツカちゃん」
底抜けに明るい人と底の見えない海は、人にえもいえない不信感を与える。
不信感というか、喪失感というか。
このままどこか、遠くの国へ行ってしまいそうな。
昇ったと思ったらすぐまた沈む、お日様みたいに。
「なんで植物なの?」
「え?」
イツカちゃんは、不意打ちみたいな女の子だ。
「なるみん、さっきさ」
「なるみんって」
「なるみっちゃん、なんて長いからね」
なるみっちゃんなんて呼ばれたのも、さっきが初めてだ。
「息ばっかりなんて植物みたい。って言ったよね。あれ、どういう意味?」
「どういう意味って……そのまんまだよ。ほら、植物だって息してるじゃん」
「でも、植物が吸うのは酸素だよ。そして出すのは二酸化炭素! まったく人間と、動物と真逆だよ。それはわたしたちの言う息と、同じ息って言えるのかな?」
……? うーん、なんだか難しいなあ。
そんなに深い意味を込めて言ったつもりはないんだけど……でもそうか、言われてみれば。
「たしかに、人と植物は全然違うよね。ごめんなさい」
「でしょ。謝る必要はないけど」
「うん。だって、植物の方が、人よりも──」
動かなくていいから、なのかなあ。
「──ずっとずっと、幸せそうだもんね」
4.
壊れた時計の針の先は、いつの時間を指しているのだろう。
「いま、大学で専攻してる薬学についてのアンケート調査をしておりまして。協力していただけますか?」
大学生のお兄さんに、声をかけられた。
品があって、大人びていて、優しそうな人だった。
「いいですよ」
断る理由もない。わたしはお兄さんから、アンケート用紙を受け取る。
あ、そうそう。これについては余談というか、雑談みたいなものだけど。
知らない人から受けた頼み事を、"断る理由がないから断らない"のと、"受ける理由がないから受けない"のは、どちらが得なんだろう。とか、考えてみる。
大極的にみれば、相手に恩を売れるという点で前者の方がいくらか(それでも極々僅かな可能性ではあるけど)得をしそうだよね。でも、もしも目の前の相手と長いお付き合いになったとしたとき、「いま」「この場で」「この程度の頼みなら引き受けた」というのが、ふたりの関係性の基準にならないだろうか? という懸念も残る。
ううむ、難しい。
きっと、どっちも正しくて、どっちも間違いなんだ。
それが答え、なんだろう。
「これでいいですか?」
「ありがとうございます。確認しますね」
なんてことを考えながら、すべての欄を埋めたアンケート用紙をお兄さんに返し渡す。
すると、彼は途端に、顔を歪めて。
「…………なんだ、これ」
良い人だと思ったのに。温和な人だと思ったのに。冷静な人だと思ったのに。
人間って、見た目だけじゃわかんないな。
「ふざけてるのか……?」
ちゃんと、真面目に答えたんだけどな。