七つの前屈ep.硝子張響「血塗の赤春~壊せ、傷。~」⑧
8.
「遅かったな、響」
指定された港に着くと、そこには人質に取られた姉──硝子張嘶が、電話で脅迫してきた男に首を抱えられながら、堂々とした微笑を蓄えて立っていた。
「なんだ、元気そうじゃねえか」
それに応える響。
そんな破綻した姉弟の会話を遮るように、一歩遅れて脅迫の男が口を開く。
「よお、約束通り一人で来たようだなあ、『モスキート』。……しかしお前の姉貴はどうなってんだ? この境遇にも泣き喚くどころか、表情一つ変えやしねえ」
第一声を人質に取られている時点で、なんというか、情けない限りだが。
「生憎地獄には慣れっこでなあ、俺達姉弟は」
「ふん、まあいい……さて、それじゃあ本題に入るとしようか」
「喧嘩か?」
「いや、やっぱ殺伐としたのはスマートじゃねえ……交渉だ」
「金ならねえぞ」
「ちげえよ、金ならこれから腐るほど入ってくる算段だ。見るからに貧乏そうなてめえにたかりゃしねえよ。お前が俺に受け渡すのは──この域還市だ」
「域還市?」
カラーギャング『スカイレッド』。
その族長を前にして、脅迫の男は余裕そうな笑みを浮かべている。
彼らの周囲には、倉庫が立ち並ぶ。
人が、何十人も収容できそうな倉庫。
「断る。俺はてめえなんかにくれてやるために、抗争を繰り返したわけじゃねえ」
「だろうなあ、知ってるぜえ──てめえがなんで、この街のてっぺんに立ってるのか」
「理由なんざねえよ。ただ、進めばこうなっただけだ」
「くくっ、よくいうぜ……偽悪者が」
脅迫の男は、不敵な笑みを浮かべて、周囲をぐるりと見渡す。
そして嘶の首を抱えていたのとは反対の手に持っていたパイプを、勢いよく地面に打ち付けた。
ガンッ!
鈍い金属音が、閑散とした港に響き渡る。
「とりあえずまあ、交渉は決裂だな──さて」
その音を合図に。
「いくら『戦場の悪魔』と謳われたてめえでも、この人数を相手に一人でなにができるかな……?」
倉庫の中から、わらわらと男どもが出てくる。
その数、ざっと五十人。
「約束が違うんじゃねえか?」
「約束なんざ守るのは、良い子ちゃんした高校生くらいなもんだろう──それと馬鹿正直なてめえとな。それにこいつらは俺の大事なファミリーだ。もはや、俺の身体の一部みたいなもんさ」
手にはそれぞれ、得物を握っている。
「やれ! お前ら」
「「うらぁぁぁぁぁぁぁ!」」
屈強な不良共が、響に向かって得物を振りかぶり向かってくる。
たしかに一人なら、さすがの硝子張響でも多勢に無勢だろう──ひとりなら。
しかし。
「そうかい……大事なら、ちゃんと守れよ」
脅迫の男が何十人の身体を自分の駒として使うように。
手のかかる番長には、もうひとつの腕がある。
「──来人」
「わかってる!」
硝子張響を囲う不良の群れが、彼を中心として、四方に割れる。
統率がぶっ壊れる。
「約束通り……? ばかいえよ、ゆとりにゆとったこの時代に、先生の言いつけ守る優等生なんて、学校でもうちのクラスの生真面目な委員長くらいだっての!」
左右と前方の敵を薙ぎ倒す際に死角となる後方、その背中に襲い掛かってくる敵は、遅れて駆け付けてきた戦場の悪魔の相棒、利手川来人の守備範囲だ。
痛いところにも痒いところにも手が届く副族長。
孫の手ならぬ、相棒の片手。
「おせえよ」
「わりい、信号に引っかかっちまって」
鬼に金棒、悪魔に右腕。
この街を統べる二人の喧嘩屋は、背中合わせで数十人の不良たちを薙ぎ倒す。
「ち、ちくしょう……おい、『モスキート』!」
その様子を眺めていた脅迫の男は、先刻までの余裕そうな笑みを完全に消した形相で、響に向かって叫ぶ。
「お前の姉貴がどうなってもいいのか!」
人質を取った脅迫者は、そんな典型的な台詞を吐く。
「お前のせいで、この女が傷つくぞ!」
お前のせいで。
『あんたのせいだからね』
思い出す、嫌な記憶。
「それが嫌なら、いますぐその相棒を差し出せ! もうお前を傷つけるだけじゃ済まさねえ……まずはお前の大事な仲間から嬲ってやる!」
救えなかった過去。
弱かった自分。
「くくっ……さあ、姉貴と相棒──お前にとって大切なものはなんだ? お前は、どっちが傷つかない未来を選ぶ!?」
正しいと思った選択。
履き違えた強さ。
『あんた、自分がなにしたかわかってんの?』』
間違ってしまった解決法。
「俺が選ぶのは……」
「おい弟よ!」
人質が叫ぶ──その、本来『人質が叫ぶ』という文脈から連想されるような悲痛さは微塵も感じられない、力強い声音で。
「やれ、響」
お姉ちゃんは、末っ子の背中を押す。
響の眼に、威圧的な光が宿る。
「俺の進む道は──」
とはいえ、これが漫画やドラマの主人公なら、ここでどうにかして『どちらも傷つかない最善の選択』を探し、円満な解決を選ぼうとするのだろう。
しかし彼は、硝子張響。
『勇猛』に破綻した喧嘩屋。
血で血を洗うカラーギャングのヘッド。
「──生憎、傷ついた道しか歩けねえもんで」
死血を吸いまわる蚊は、飛ぶ場所を選べない。
彼の立つ舞台は、どこであろうと戦場になる。
壊されないようにするには、自分の手で壊すしかない。
「え、ちょ、響? なにを……」
「来人、悪いが肩貸せ」
「肩貸すって、そんな物理的にガッと掴むもの? ちょ、まさか──」
数十の壊れた屍の上で、その死線を共に潜り抜けた共闘者の肩を響は容赦なく掴む。
そして引く。
投擲の所作。
「おいおい、なにをする気だ……? わかんねえのか、さっさと大人しくしねえと、姉貴の頭をかち割るぞ!」
「いいよ、べつに」
「ああん!? だから、人質が堂々と喋んな!」
金属を人の頭に振り下ろすなど、まともな神経ではできはしない。
そのひと振りは相手の頭蓋骨だけじゃなく、その周りにある色々なものを、容赦なく破壊してしまうから。
たったひとりに数十人用意するような男に、女を盾にするような小悪党に、そんな度胸があるわけがない。
「いくぞ。覚悟決めろよ」
「──ああもう、わかったよ! どうせお前は、俺がなに言ったって止まんねえんだからな!」
実の姉の悲痛に歪む顔を見せれば、足が竦むとでも思ったか?
仲間の身を危険に晒すような真似はできないとでも踏んでたか?
──甘えよ。
「おいおいおいおいおい……まじかまじかまじか……そんなことしたら、その野郎も……この女もただじゃ済まねえぞ⁉」
「おいパイプマン。てめえにふたつ、いいことを教えてやろう」
幼い記憶の中の姉は、いつも泣きじゃくっていた。
『いたいっ、いたいよ、お父さん……ごめんなさいっ、ごめんなさいごめんなさい……』
襟元や袖が涙と鼻水と血でぐちゃぐちゃになった洋服を、母が必死で洗い落している姿も目に焼き付いている。
「おい口だけ小僧。無駄だと思うが、逃げるならいまのうちだぞ」
「だから人質が勝手に喋ってんじゃねえ! ってか、だれが逃げ……」
「いまお前の目の前にいるのは、わたしの弟だぞ?」
「──っ!」
ゾクッ。
なんで。鉄パイプを握った男に、首根っこを抱えられて。それでもなお、なんで……
そんなに不敵に、笑ってられる?
「言っただろ、俺達姉弟は、地獄には慣れたもんだってよ」
しかしいつからか、姉の泣き声は止んでいた。
洋服にこびりつく液体は、涙も鼻水もなく、真っ赤な血だけになった。父親のDNAが流れる血液だけになった。
じゃじゃ馬長女の嘶きは、もう響かない。
「姉ちゃんの感覚はもう完全に──ぶっ壊れちまってんのさ」
一度壊れたものを再び壊すことはできない──人は流動に抗えない。
後天性無痛病。
痛みを痛みだと思えなくなる病。危険に身を晒す代わりに、あらゆる恐怖から解放された状態。
修復不可能なほど傷つけられてなお愛を捨てなかった少女の、ささやかな自己防衛。
「狂ってる……この姉弟、完全に狂ってやがる……!」
「そしてもうひとつ」
響は限界まで引いた右腕を──彼の肩を掴んだ手を放しながら──思いっきり振りかぶる。力任せに、豪快に。
「ちっ、いくぞ相棒! もう、なるようになれ!」
「お前がこの雑魚共を自分の身体の一部として扱うように──俺にも、俺が自由に使っていい腕がもう一本あんのさ」
利手川来人の身体が、まるで弾丸のような軌道を描いて、脅迫の男と嘶に向かって飛ぶ。
そして衝突。
来人の頭がもろに顎にヒットし、脅迫の男はその場にくずおれた。
響の実姉、終始この場におけるだれよりも堂々としていた人質、嘶が解放される。彼女にダメージを負った様子はない。増えたのは、傷の数くらいだ。痛みはない。
スカイレッドの副族長にして頭の相棒は、激しく地面に身体を打ち付け悶えている。
「ロケットパンチ──つってな」
「……俺が……右腕ってのは……そういう意味じゃ……ねえ……」
少々──どころか大層、粗い締めくくりではあったが。
登場人物なんと全員、傷だらけになりながら。
下手をすればこの街の勢力図が引っ繰り返りかねなかった、域還市の治安を揺るがしたかもしれない人質事件は、こうしてニュースにもなることなく、人知れず幕を閉じた。
本編の後はカーテンコール。
硝子張響の通る路は、エピローグでさえ、穏やかではない。