七つの前屈ep.硝子張響「血塗の赤春~壊せ、傷。~」④
4.
彼の姓が硝子張になる前、父方の姓を名乗っていたその家では、暴力は日常茶飯事だった。
「おら、さっさと酒持ってこい!」「ちっ、なんでタバコ切らしてんだよ、使えねえクズ共だな!」「おいおいなに泣いてやがんだぁ? ちょっと小突いただけじゃねえかよ、それでもほんとに俺のガキか?」
アルコールを摂取しては暴れ、ニコチンを切らしては暴れ。
父親の瞳孔の開きっぱなしになったその目は常人のそれとは明らかに異なっていて、どこから入手したのか、彼が裏で酒やタバコよりも危ないなにかに手を出していたであろうことは、まだ幼かった当時の響にもわかっていた。
なんでそんなに怒ってるの?
僕たち、なんか悪いことした?
やめて、やめてよ。お母さんとお姉ちゃんを、もういじめないで。
「お、おとうさ──」
「うるせえ、ガキはだまってろ!」
──痛い。
幼く非力だった長男の優しさはいつも、言葉になる前に消えてしまっていた。
流されて、壊されてしまっていた。
「あんたのせいだから」
大人の男の力で顔にも身体にも消えない傷を刻された少女、響の姉──第一子にして長女、後の硝子張嘶は、弟によくこんなことを言っていた。
それはきっと、胸に溜め込んだ不安や恐怖や憤りをどこかに発散させたかっただけで。
その矛先がたまたま、弟である響に向けられただけのことではあったのだろうが。
「あんたが生まれてきてから、お父さんは、わたしとお母さんに暴力を振るうようになったんだからね」
しかしその言葉は、彼の人格を──彼の今後の人生、すなわち「硝子張響」の物語、その本来のキャラクター性を──壊すのには、十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
「ごめんなさい……僕のせいで……お母さんとお姉ちゃんを傷つけて……僕が、僕が弱いから」
弱いから守れなくて、ごめんなさい。
お父さんを壊せるほどの強さを持てなくて、ごめんなさい。
そして、どんな環境にも時間は流れる。平等に。逆らえないほどの強さで。
「お、お前、なにを──」
「邪魔だっつってんだよ、てめえは俺達にとって。愛人でもなんでも連れて、さっさとこの家から出ていきやがれ!」
彼女達がその地獄から解放されたのは──ひとつの家庭が、大きく流動したのは、ただ泣くことしかできなかった少年が、中学生になった頃。
金属バットを使えば大人の額もかち割る程度の力はついた、ある夏のこと。
その行為は彼にとって、正義のつもりだった。最善の選択を選んだつもりだった。
でも。
「あんたさあ、自分がなにしたかわかってんの? ……我が弟ながら、ぶっ壊れてるよ」
でもそこには望んでいた、見たかった笑顔はなくて。
買い物から帰ってきた母も、高校受験の模試から戻ってきた姉も。
ただ、泣いていた。
「悪いな、ぶっ壊れててよ。……父親譲りなもんで」
──ああ、そっか。
毎日目を赤く腫らしながらも、母が絶対に離婚を切り出さなかったのは。
何度殴られても蹴られても、流血しながらも姉があいつを『お父さん』と呼んでいたのは。
「……そうね。あんたとお父さんは、たしかに似てるわ」
血の繋がった家族として、愛していたからなんだ。
心底あいつを憎んでいたのは、嫌いだったのは。
俺だけだったんだ。
「似てるけど、全然違う」
その頃から、硝子張響は己の中に芽生えかけていた退屈な『勇猛』を自覚的に振るうことになる。
──家族の幸せを壊してしまって、ごめんなさい。
取り返しのつかない罪を犯してしまった過去を戒めるように、自分自身を傷つけながら。