後悔で溢れる世界〈b:お悔やみ編〉ep科学者2 「機能的人権の尊重」⑥
6.
「ねえ。『後悔』って、知ってる?」
中学校からの帰り道。同じ歩幅で隣を歩く友人の問いかけに、シルク──当時はもちろん本名を名乗っていたが──は半ば呆れながら「またか」と思った。
そしていつも通り、抑揚の少ない声で静かに返答する。
「ないけど。それが、どうしたの?」
この子はいつも、わたしの知らないなにかを持ってくる。
「その昔ね、人間みんなが、持っていたものらしいんだ」
すでにほとんどの人間が日々の判断はすべて時計に任せ、選択を放棄していた時代を生きるシルクにとって、その感覚はとっても新鮮なもので。
「みんなが、って……この時計みたいに?」
「ん……ああ。うん、そうだね。ちょうどその時計と交代するみたいに、その言葉は人間の心から、消えかかってるんだって」
「消えかかって……」
「まだ完全になくなった、ってわけじゃないみたいなんだけど。でも、あたし達くらいの年の子だと、もう知りもしない子がほとんどなんだって」
だれも教えてくれないことを教えてくれるだれかの存在は、少なからず刺激的で。
「なんで、あなたはそれを知ってるの?」
「お祖母ちゃんに聞かされたんだ。あたしが時計ばっかり確認してたら怒っちゃって、いつもむりやり、その話をされるの」
「どんなものなの? その、『こうかい』って」
「とっても、辛いものみたいだよ。息の詰まるほどの煩わしさと、どうしようもないもどかしさが胸の中を支配したような、ひどく苦しい感覚のことを言うんだって」
「なにそれ。最悪じゃない」
その新鮮さと刺激が、だけどちょっぴり、怖かった。
常識とか当たり前が、壊されてしまうような気がして。
自分が自分じゃ、なくなってしまうような感じがして。
「うん、最悪だね」
でも、と続けた照れ混じりの笑みから流れる少女の言葉が、シルクの耳に吸い込まれて溶けていく。
「ちょっとだけ、羨ましいなあ、とも思うんだ」
「羨ましい……? なんで」
「なんでかなあ。わかんないや」
もうすぐにでも、どこか遠くへと行ってしまいそうな、流れ続けて決してひとつの所には留まっていられない風のような寂しさを伴った響きが、お嬢様の心を冷たく通り抜ける。
「わかんないって……無責任だよ」
「無責任は、みんなそうなんじゃないかな」
なぜかはわからない。けれどシルクは、その言葉にはっとした。はっとして、ドキッとした。それはまるで、母にイタズラがばれた子供が感じるような、妻に不倫がばれた夫が感じるような、嫌な後ろめたさがへばりついた感覚だった。
「……それで。そうだとして、それがどうしたの?」
左手首の時計をきゅっと握りしめながら、シルクは親友の言葉をあえて流して話を緩やかに逸らそうとする。
この優しい拷問みたいな時間から、逃れようとする。
「だからね。わたし、最近はちょっとした実験をしてみてるんだ」
「実験……?」
実験。
学校では科学を専攻している(当然、時計の選択の結果だ)シルクにとっては馴染み深いその語彙はしかし、日常会話においてはやや異質な存在感を放つ。
そしてそれを受け、シルクの心中に蔓延る怖がりと後ろめたさが、やや形状を変えて、胸の中をもやもやとした膜で覆う。
不安、焦り、心配……そのどれとも違う、取り返しのつかないなにか。
その感覚の名称をシルクは知らない。
その先に待つのはきっと、これから先の人類が忘れてしまうものだから。
「逆の未来を生きてみたら、どうなるのかなーって、実験」
「逆の……未来?」
「うん。ほら、これあるでしょ」
少女は制服の左袖を捲る。露になった左手首には、平然とした体で、機械が巻かれている。
未来を教えてくれる時計。幸福を測ってくれる装置。人類最大の発明。
ハピネスウォッチ。
「ここは『左に曲がる』が六十二パーセントで幸福、か……よし」
言いながら少女は──次の突き当りは左折することが、己の人生における最善で最適の選択であると機械に判断された少女は。
次の角を、右に曲がった。
「え……?」
いま、なにした? なにが起こった? 常識的にありえない。考えられない。
シルクは親友の行動に呆気に取られ、茫然とし、満足に声も出せない。
「えへへ、どう? これがじっけ──」
「ばか! なにやってんの!」
気が付いたら叫んでいた。
急に声を──しかも普段ならば絶対に出さないような人生で初めての大声を──上げたシルクの喉は、驚きでからからに乾いていたことも相まって、裂けてしまいそうなくらい痛かった。
「なにって。曲がり角を、右に曲がっただけだよ」
「なにかあったらどうするのよ!」
「なにかって。なにもないじゃん。ほら、わたしはどこも怪我してない、ぴんぴんしてるよ?」
「そういう問題じゃ──!」
駆け寄ろうとして、慌てて時計を確認する。お嬢様の左手首に巻かれた機械は『そこで立ち止まりながら話す』選択を示していた。シルクは足を止め、感情の読めない微笑でこちらを見つめ続ける親友に力ない声をぶつける。
「お願い……お願いだからもう、そんな危険な真似しないで……」
俯きながら発したから、少女の表情の変化はわからない。しかしシルクのその弱弱しい懇願は、先ほど勢いに任せて──左手首の方など見る由もなく──発した叫び声よりも、親友である彼女の胸に響いたらしい。
「……わかった。もうしないよ。約束する」
少女は一度左手首に目をやって頷いてから、俯くシルクの傍にゆっくりと歩み寄って──運命に逆らった未来から戻ってきて──優しく微笑む。
「わたしもみんなと一緒に、時計の選択に従って生きるよ」
『無責任だよ』
『みんなそうなんじゃないかな』
耳の奥で溶けたその言葉が慌ただしく反響して、シルクの胸に重くのしかかる。
みんなとは、だれからだれまでを指すのだろう。どの時代のみんななのだろう。
その「みんな」には、たぶんわたしも、含まれている。
「でも、嬉しかったよ。本気でわたしを心配してくれて」
──ありがとうね。
お礼を言われてもシルクは顔を上げようとせず、ずっと俯いたまま。わかっていたからだ。
たぶん彼女が本気で心配していたのは、壊されたくないと願ったのは、なにも時計の選択に依って付き合い始めた親友の身なんかじゃなくて──自分を守ってくれる、常識とか当たり前の方こそだったのだと。
「ううん……いらないよ、ありがとうなんて」
知っていたから、気まずくて。
後の科学者2は、親友の笑顔から、現代の問題から。
目を逸らし続けた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?