後悔で溢れる世界〈b:お悔やみ編〉ep.芦分三科「芽生えた心、ここに在らず」⑤

5.

「人間の命は、どこに宿るんでしょうかねえ」

 芦分三科が、機械でも人間でもなくなった自分に、生まれて初めて──造られて初めての絶望を感じていたころ。

 レフトホイール社内の一室で温かいココアを飲みながら、女性科学者は独り言のように呟く。

「珍しいな。きみがスピリチュアルな事柄に関心を持つなんて」

 同室の向かいの椅子に座りながら、彼女の上司にしてハピネスウォッチの開発者である社長兼科学者が、なにかの機械を弄りながら、部下の呟きに応える。

 心を通わせずとも、会話を成立させることはできる。

 この二人のやり取りはいつも、そんな人類にとって幸福なのか不幸なのか判然としない事実を証明し続けていた。

「いえいえ、極めて科学的な疑問ですよ」

 愛想がないとさえ言えるほどクールに徹した上司の返事のような発言にも、女性科学者はたじろぎも臆しもしない。

 机の上に置かれていた人形──後悔誘発機の製造構想時に用いられていた、小型版人体模型──を手の中でくるくると回しながら、声の大きい独白を続ける。

「例えばですが。人間は、胴体を引きちぎられたら死にますよねえ」

 科学者は、模型の胴体部分をぱっくりと割る。

 命の宿らない人形が、上下に均等に分離する。ひとつがふたつになった個体には、しかし命の総数は変わらない。ゼロのままだ。

「ならばこれは残った上半身と下半身、どちらが『死んだ』ことになるんですかねえ?」

 では仮に、これが生身の人間であったとしよう。

 こうして胴体が切断されれば、その人間の命は尽きることになる。なんらかの『名前』が付与されていた、その存在が一つ消えることになる。
  
 しかしその場には、二つの『死体』が残る。

 もはやひとつの個体としての形はない、上半身と下半身。尽きた命はひとつ、消えた存在はひとつ、なのに残った物体はふたつ。

 そこには数字的な矛盾──まるでシュレディンガーの猫のような──パラドックスが起きる。

 個体と概念の数が比例しない。
 個数と定義が釣り合わない。

 命は、どちらに宿っていたことになる?

「寸前までは同一の個体であったとはいえ、こうして分離してしまった以上、この二つは異なる物質として扱うべきでしょう? パンや肉を切り分けた枚数で数えるように、液体を分断した数量で量るように──人間や生物だけが、その仕組みの外側にいられるわけではありませんよねえ」

 機械だって壊れる。

 しかしそれは実質、その機械を構成するパーツのいくつかが欠損しただけで、厳密には存在自体が『死んだ』ことにはならない。組み替えて再利用することは、いくらでも可能だ。

 ただ人間は基本的に──不老不死でもない限り、いずれは死ぬことになる。

 そのとき、それを形作っていた部品がばらばらになっていたら、そのときに尽きた命は、ほんとうにひとつだけといえるのだろうか?

「心臓を貫かれても死にますよねえ」

 科学者は、人形の心臓部をくり抜く。

「四肢をもぎ取られても死ぬでしょうねえ」

 科学者は、人形の手足を引っこ抜く。

「脳を破壊されても死んでしまいます」

 科学者は、人形の脳部に、親指を打ち付ける。

「心臓を抉られて死ぬのなら、命は心臓に宿るのでしょうか? 手足を失って死ぬのなら、命は手足に宿るのでしょうか? 脳を壊されて死ぬのなら、命は脳に宿るのでしょうか──考えても考えても、余計にややこしくなるばかりで、この問題を考えるには文字通り、どうやら命がいくつあっても足りなさそうです」

 そこで科学者はばらばらになった人形から目を離して、向かいに座る上司を瞳に映す。

 睨むように、蔑むみたいに。

「でも、あなたなら──命がいくつもなくとも、たったひとつの命がずっと続き続けるあなたなら、いつか辿り着けるかもしれませんねえ。このパラドックスの答えに」

 やや穿った視点で、救いを求めるように、希望的観測としてこの状況を捉えるならば。

 軽薄で嫌味な女性科学者はこのとき、思い出していたのかもしれない。

 かつて自分が少女だったときのことを。その隣で時代に反抗するように笑っていた、可哀想な親友のことを。救えなかった後悔と、忘れたい過去の想い出を。

「命は、ほんとうにひとつなんでしょうかねえ」

 かつての少女の瞳の中で揺れながら、レフトホイール社の社長にしてハピネスウォッチの開発者──人類から『後悔』を奪い去った天才は、静かに口を開く。

「どうだろう、わからないな。……だが、ひとつだけ言えることは」

 話しながらも、睨まれながらも、機械を弄る手は止めない。

 人類の未来は、発展と幸福は、彼の手の中で作られている。

「減るだけが死に近づくわけじゃない──増えて、壊れることもある」

 余命が無限に増え、組織の規模が大きくなるにつれ、人格を破綻させながら生きてきた科学者のその言葉は、それが絶対の真実であると錯覚してしまいそうになるほどに、説得力に満ちていた。

「増えて壊れる、ですか……そうですよねえ」

 一号機と二号機はそうやって、自らスクラップになっていったんですからねえ──とまでは、口には出さず、女性科学者は白衣のポケットに押し込めた機械を指で触る。

 人間でも簡単に手放したくなってしまう『感情』なんて荷物を与えられた機械の命がどこまで持つのか、考えながら。

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