『七つの前屈』ep捺鍋手愛須編「振り撒くハクアイ~溢れ、愛。~」③
3.
「──ところであなた、とっても正義感に溢れた凛々しい貴婦人なようだけれど、どう、このままわたしと悪党退治としゃれこまない?」
「しゃれこまない。わたしは仕事中だ。忙しい」
政宜館翳。せいぎかんかざし。薬品会社『アクタボン』営業課。激しく凛々しい仕事人間。
淀んだ目をした事務員に告白した直後、彼女は性懲りもなくまた愛を伝え、袖にされていた。本日何度目かもわからない玉砕を受けても、捺鍋手愛須は笑みを崩さない。
それは受付嬢としての職業病か、はたまた、表情と心情は切り離して生きているからか。
それとも、振られることがそもそも、そこまでショッキングな出来事ではないからか。
「忙しい、ねえ……みんな急いでる忙しいばっかりで、愛が感じられないわ。つまらないの」
口調とは裏腹に、やはり彼女の表情は変わらない──それは「つまらない」というのが冗談というよりは、元から彼女の人生がそんなものだったという解釈で間違いはないだろうが。
なによりも、だれよりも退屈なのは自分自身だということを、頭の良い彼女はよく理解している。
愛に溢れた彼女の人生は、ひどくつまらない。
学校でも公園でも、受付台でも。どこであれ彼女が立つ舞台は、味も深みもない陳腐で不埒な物語になってしまう。
彼女の告白のように、愛の言葉のように。
中身がなくて、薄っぺらくて、軽んじたものになってしまう。
ありきたりでありふれた言葉で、溢れてしまう。
「すまないね、わたしはここには仕事をしにきてるんだ。……ただ、最初に雑談にきみの労課時間を割いてしまったのもわたしだ。わるい」
「そんな、謝らないで。わたしのことは、奴隷だと思ってくれてかまわないわ。──そう、愛の奴隷だとね!」
「ありがとう。なら、ついでにもうひとつ、聞いてもいいか?」
政宜館女史はそこで、半ば強引に話題を変える──まるで、それこそが本題で、初めからその話をするために声をかけてきたみたいに──ある男の名前を切り出す。
「富所外賄賂──わたしの勤務する薬品会社『アクタボン』の専務について、なにか知っていることはないか?」
それは彼女の抱える大罪、社会や大人に対する『憤怒』の業が、いま、最も強く向けられる男の名だ。
薬が好きで。だから薬品会社に入社して。身を粉にして──粉薬のように──働いて。
自身に根差した正義感に則って生きる彼女には、許せないのだ。我が身がかわいいだけの、私腹を肥やしたいだけの輩は。
富を持つものは、いつだって責められる。羨ましいが故の嫉妬もあれば、ただ単純に、悪いことをしてるから怒られることもある。
ただ、そんな彼ら彼女らの、愛憎入り混じる濃密なストーリーラインは、残念ながら、この文脈のメインとはやや外れる。
大罪に塗れた事件の行く末は、又の機会。
この取り留めのない会話は、退屈な男女の、取るに足らない舞台へと繋がっていく。
「……ええ。もちろん、知ってるわよ。あなた──政宜館翳の上司にして『アクタボン』専務、富所外専務のことよね?」
そう。いまは、彼女──『博愛』を溢しながら笑む乙女、捺鍋手愛須のターン。
「彼はね……わたしが愛すべき、愛しのダーリンのひとりよ! あー、もう、あの他人なんかどうでもいい、って態度がたまらなく、狂おしいほど愛おしいわ!」
強欲な黒い腹の内も。憤怒で煮えくり返る腸も。
焦がれる博愛の前では、等しく無力。
「もちろん、あなたのことも彼と同じく愛してるわ。均等にね」
捺鍋手愛須が抱き締める真実の愛は、特別を、決して許しはしない。
それが、正義でも、正解でもないとは、わかっていても。