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「自分」という光を手にするまでの物語 ー川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』ー
「自分」のない主人公・入江冬子
物語の主人公は、フリーの校閲者として働く30代女性の入江冬子だ。小さな出版社で働いていた彼女は、会社の人間関係に馴染むことができず退社し、その後フリーとして仕事を始める。
そんな彼女の性格は、小説の中でこのように書かれている。
【・・・】わたしはいつもよくわからなかったのだ。何をどう楽しんでいいのか。断りたい仕事があっても、それをどんな風に断るのが正しいのか。考えれば考えるほど、最後にはいつも自分の気持ちのようなものがわからなくなって、それで行動を起こせないままにやってきただけだった。
彼女は他者と関係を構築することが非常に苦手な人物で、それどころか自分の感情に対しても鈍感で、自分の意思を発することができない。
自分自身との関係を作ることができないし、自己対話もなく完全に内に閉ざされている。小説のなかで彼女は、「自分」のない存在として描かれている。
趣味もなく、残業もほとんどしない真面目に仕事をこなす彼女には、家に帰って寝るまでの時間に何もすることがないし、休日を一緒に過ごす友人や恋人もいない。
唯一することと言えば、自分の誕生日であるクリスマスイブの夜に散歩をするくらいだが、それを誰かに言ったことはない。
そんな一見孤独に見える彼女だが、その孤独な状況や寂しいと思う自分の気持ちにさえ気づいていない。
しかし、そんな彼女にささやかな知り合いができる。石川聖である。彼女は、大手出版社で働く同じ校閲者で、冬子のフリーへの転身をサポートしてくれた人物であった。
転身前、本職とは別にアルバイトとして校閲の仕事を請け負っていた冬子は、聖の会社から仕事を受けていたのだ。その縁で彼女は、聖と電話で話をするような関係になっていった。
石川聖は、冬子と同じ歳で出身地も同じである。しかしそれ以外に共通点はない、と冬子は思っている。というのも、聖は容姿端麗でメイクやファッションにも気をつかい、仕事もできるキャリアウーマンであるからだ。
しかし、一番決定的に違う点がある。それは彼女は「自分」のある人であるところだ。彼女は、考えていることやおかしいと思ったことは相手や場所を選ばずきっぱりと発言し、自分のことは自分で決めないと気が済まない性格をしている。
つまり、聖にとって意思決定や自由意志こそが自分を自分たらしめているものであり、冬子とは異なり、「自分」のある存在として描かれている。
三束との出会い、恋、そして別れ
冬子は聖とバーで過ごした日を境に彼女は飲めない酒を飲むようになる。小説では言及されていないが、おそらく聖の影響である。彼女は酒に強い聖の真似をしているのだ。
つまり、これは冬子は「自分」の構築をはじめていることを示しており、しかし同時にものまねという枠を超えることのできないかりそめの「自分」でしかないことを表すものと言える。
ある日冬子は街なかで断り切れず持ち帰ったカルチャーセンターの冊子を部屋で見つけ、一念発起してセンターへ向かうことになる。彼女のはじめて自分の意志で決めたことである。
彼女は酒の力を借りて、カルチャーセンターへ赴き受講の手続きをしようとするも、ついに酔いが回ってしまい、ある男性に介抱される。それが三束であった。
それをきっかけに二人は喫茶店で語らう仲となる。高校で物理を教えている三束と冬子は、冬子が好きな光についての話をし、物理やピアノのクラシック音楽の話をする。しかし冬子はお酒を飲んでから三束さんと会うため、いつも饒舌になりながら会話をする。
これは、冬子は酔っぱらうことでいろいろと頭で考えないようにしていることを示し、やはり冬子は本当の「自分」を見せることができない。
同じ時間を過ごすうちに冬子は三束にしだいに惹かれ、恋に落ちていく。しかし、そんな自分の気持ちをうまく消化することができず、聖にうまく相談することもできない。二人の関係をこれからどうすればいいかわからず、苦悩していく。
冬子は十数年ぶりに再会した同級生に心ないことを言われた日を境に、彼女は内に閉じこもり、三束や聖との一切の連絡を絶ち、しだいに仕事も手につかなくなってしまった。
そのように鬱屈とした日々過ごすなか冬子は、自問自答をくり返し、ついに自分の人生をこう評価する。
わたしはこれまで、何かを、選んだことがあっただろうか。【・・・】わたしは自分の意志で何かを選んで、それを実現させたことがあっただろうか。何もなかった。だからわたしはいまこうして、ひとりで、ここにいるのだ。【・・・】傷つくのがこわくて、わたしは何も選んでこなかったし、何もしてこなかったのだ。
冬子は自分がこれまで意思決定を放棄してきたことを認識し、その結果いまひとりぼっちなのだということ、さらにはじめて孤独な感情を抱いたのである。
冬子は思い切って、三束さんに連絡をとり、彼の誕生日を祝うため食事の約束を取り付ける。これは冬子が自分の意思で決め、踏み出した行動であった。
冬子は以前聖にもらった服と下着一式を身につけ、美容院で髪を整えメイクをほどこしてもらう。
二人は聖がくれた服のポケット入っていた名刺の高級レストランで食事を楽しむ。レストランをあとにした冬子は三束さんに自分の気持ちを伝え、自分の誕生日を一緒に過ごして、真夜中を散歩してほしいと言う。三束はそれを約束し、二人は心を通わせる。
二人の恋が終わってしまった理由
しかし、二人の関係はこれ以上進展することはなく、終わってしまう。これがこの物語の最大の謎である。
冬子と三束は両想いだったはずなのに、なぜくっつかなかったのか。その理由は、デートの帰りに登場した聖との対話の場面から推測することができる。
久しぶりに再会した聖は、冬子のアパート前で待ちかまえていて、酒に酔っている。体調不良で心配していた自分に何の連絡もないことを詰問したのち、聖は冬子の部屋に上がる。
聖は相手を言いくるめるときやからかうときの口調で、冬子のデートのことや相手のこと、どこまでの仲なのかなど根掘り葉掘り聞く。会話は、冬子が人と深く関わらずに生きていることに及び、その態度に苛立ちを表す。
まず注目したいのが、ここの会話が「次元を上げる」会話になっていることだ。
つまり、質問に対して質問で返しているということであり、二人の間で何度もくり返される。
これが何を意味するかというと、質問を質問で返す裏側には、その人と本心が見えるということだ。つまり、いま冬子と聖は本音で語りあっているのだだ。かなり興奮状態ではあるものの、二人は本当の「自分」を晒しているのだ。
ここに冬子と三束が関係を発展させられなかった最大の理由がある。つまり、二人は「次元を上げる」という質問に質問で返す会話しなかったのだった。
二人の物理や音楽の会話は、質問に対して答える、一問一答のような会話でしかなかったのだ。実際、小説のなかで、質問に質問で返すことは次元を上げることだと言ったのは三束で、それを冬子に禁じたのも彼だった。
おそらく彼も自分の本音を知られたくなかったし、相手の本音もまた知ることを恐怖したのだろうと思われる。
そうした一問一答的会話は、一見幸せなものとして描かれているのだが、本音のないという意味で、「自分」を表すものではなかった。
翻っていれば、形式はどうあれ「自分」をさらけ出すことなしに、人間同士の関係は構築できないという怖さを表現していると言える。
冬子と聖の会話は佳境に入り、ついに聖は冬子に向かってこう言い放つ。
『あなたをみてると、いらいらするのよ』
この言葉は、高校のとき初めてのセックスした(というより無理矢理ではあったが)同級生水野に言われた一言であった。
このようにこの小説のなかには、リフレインされる言葉がいくつかある。例えば、もらった服をどうすればいいかわからない冬子に、そんなの着ればいいだけだと笑った聖と、ピアノのクラシック音楽なんてわからないと言った冬子に、ただ気楽に聞けばいいと笑った三束とが重なる。
冬子は聖にこう言い放たれた瞬間、わっと泣き出してしまい、頭のなかで三束の面影を探しはじめる。そこで冬子は今日の三束とのデートをこう振り返るのだった。
【・・・】慣れてない高級レストランなんか行かずに、ワインなんて飲まずに、いつもふたりで過ごしていたあの喫茶店で、スパゲティーとかサンドイッチを食べればよかったと思った。【・・・】お酒を飲みたかったら、コンビニで買ってきて、ふたりでならんで公園で飲めばよかった。
冬子はなぜこんなことを思うのかわからないと思うのだが、冬子は「自分たち」らしくなかったことを無意識に後悔しているのだ。
つまり、見栄を張ってしまったのだ。それはもっと言えば誰かの欲望みたいなもの、この物語で言えば「引用」だったということを自覚したのだ。
聖は以前冬子に、時々自分の気持ちがわからなくなるときがあると言い、これは誰かの「引用」ではないのか、と思ってしまうと話した。
自分の感情は今まで見た小説や映画などで言われたものをなぞっているだけで、自前のもではない感覚があると言うのだ。
しかし誰かの引用ではないかという気持ちがさえ、以前誰かから見聞きしたことなのではないかと考えてしまい、袋小路に入ってしまっていると言った。
まさに冬子は三束としたことやその気持ちは、「引用」だったかもしれないと自覚するのだ。
冬子は以前、本屋で女性向けの書籍を立ち読みをした。そのときに女性としてどう生きるか、誰かに愛される人生か、仕事のキャリアを優先するか、その両方手にするかなど、その人の実情を差し置いて、あくまでメディア的に受ける形で提示された理想像や欲望に影響され、自分のそれと重ねてしまったのである。
しかし、それは社会的に植え付けられた欲望であって「自分」のものと言えない代物である。
冬子は聖の真似をして酒を飲んだり、聖の服を着たり、社会的な理想像や社会に誘導された欲望を、あくまで自分のものとして行動してきた。しかしそれではうまく行かなかった。はじめて冬子はそのことを自覚したのだ。
突然泣き出した冬子に驚き、泣きながら聖はいままでの発言を謝り、あなたのことをもっと知って友達になりたいと言う。冬子は聖の気持ちを理解し、泣きながら何度もうなずいて、この章は終わる。二人は自分をさらけ出して、真の友情を通わせたのだ。
「すべて真夜中の恋人たち」という言葉
最終章で冬子は三束から手紙をもらい、そこには自分が本当は教師でないことやいままでついた嘘が書かれており、それから二人は二度と会うことはなかった。
冬子はいつも通り仕事に励むようになり、三束に会う前の日常を取り戻していく。
そして数年が立ったある夜冬子に変化が訪れる。仕事を中断し、ベッドで横になるもどことなく落ち着かない。
彼女は突然起き上がり、ノートに「すべて真夜中の恋人たち」と書き記す。
それはどこかで見聞きしたものかもしれないけれど、今まで何のためでもない言葉を書くのはじめてでそんな自分に静かに驚きながら冬子は眠りにつき、物語が終わる。
「すべて真夜中の恋人たち」という言葉は、冬子が「自分」というものを手に入れたことを表している。
注目したいのは、これは意思決定する「自分」とは異なること、つまり聖とは異なる「自分」を獲得した点だ。
この言葉は文章なのか、どんな意味かも本人にもわからないが、おそらく真夜中を過ごす恋人たちを思う、冬子の慈愛を表現する言葉のようにおもえる。
冬子がここ数年のあいだ体験した数々の出会い、仕事、感情、考え、手にしたもの、そして失ったもの。
そんな日々を過ごしたからこそ獲得した正真正銘の「自分」なのだ。それは、アイデンティティというにはあまりにも大げさで、それでも大切な「自分」、そんなささやかなものなのだ。
『すべて真夜中の恋人たち』は、「自分」とは何かという近代からテーマになっている自我の問題を、情報社会の中を生きる現代人のなかで引き継ぐ。
「自分」というものをあらゆる体験を経て獲得することで、自我の問題を克服するものと書いた。しかし、こう書くとまったく大げさで小説の真理を語ってるとは言えない。
なぜなら手にした「自分」はあまりにもささやかで、頼りなく、だからこそ尊いものだからだ。