壁を壊す
テレビに出なくなって3年ほど。しかしいまだに嫌いな芸人ランキングにはトップ10にははいる根強いアンチのいるおれが1年に一度、数分だけおれがテレビに現れるフジテレビのTHEMANZAの収録を終えた。おれが嫌われる理由のひとつはこの番組でもある。ここでやった漫才は強烈なファンとアンチを毎年つける。
今年のオンエアは12月8日19時から。
それまでに話したいことを。
僕はワイドショーや世間の風潮が好きではない。週刊誌や新聞はその時起きた問題をその日に記事にして、それが関心度が高そうな問題から報道番組やワイドショーで流し、専門家は知ってる顔で語り芸能人コメンテーターは実体験や、素直な感想でそれにコメントをする。
ひとつのテーマは約5分ほど。MCは「次のテーマはこちら」と言いまた新たな魚をまな板に乗せる。そうやってテンポよく次から次へと起こる問題が消化されて行く。それらは感動するわけではなく、流れ作業のようにも見える。
それらのテーマは時に「旬のテーマ」という言い方をされる。そして、それらを扱う漫才をする芸人は時事ネタ漫才と言われる。いま漫才で沢尻エリカを取り上げる芸人はいるけど清原やASKAはいない。なぜなら清原やASKAをやると「いつの話やねん、いまは沢尻やろ」となる。
ワイドショーで沢尻エリカに群がる番組、そして、それにいつもコメントする人たちは、なんだかタピオカや韓国のチーズハットグに並ぶ女子高生のようにもみえる。誰かが、時事ネタという言葉を使うとき、俺はいつも思う。
時事というのはその時の事、と書く。しかし当事者からしたら、その時の事ではなく日常のことだ。福島は今も泣いてるし沖縄は今日怒っていて朝鮮学校の子供は明日も戦う。なんならあの時の戦争体験者はいまも声を上げている。だから時事ネタとか旬とか言うあなたは、その時たまたまメディアがピンスポットをあてた、そこをみただけの他人の悲しみつまみ食い野郎だ。
テレビは当事者との距離を遠くして想像力を欠落させる。前にインドネシアで地震があった時、その時の日本の記事で「インドネシア、津波で村が消える」と書かれていた。これが、日本の村のことなら絶対「村が消える」という書かれはしない。人は時に想像力がなくなる。
小学生の時に救急車のサイレンが鳴り友達が誰かに「おまえのこと迎えにきたで」と言っていてクラスが笑いに包まれた。おれはあの救急車の中に誰かが死にそうになってるかもしれないのに、と複雑な気持ちになった。しかし笑いは人権を犠牲にする。時にその想像力が邪魔になることもたしかだ。
いまネットが当たり前になり情報が溢れてるこの時代、テレビや新聞だけではなく、SNSでも、ニュースが流れ、そこにはそれだけの悲しい出来事が起こってるはずなのに、スナック感覚のように、いや、目の前に流れる回転寿司の皿を手にとるように流れてきたものに手をつける。
だから気付けば"誰かに少しだけかじられた寿司"が沢山遠くに流れていく。
しかしながら福島の原発事故はまだまだ大変で、沖縄は今日も怒り声をあげている。最近、知り合いに台風19号のホームレスの話をすると「いつまで言ってんねん」と言われた。
彼らはその時、世間というやつから強烈なスポットライトをあてられたけど、世間はまた新たに流れてくる寿司に飛びつき、昨日の発言などまるでなかったかのような顔でコメンテーターたちは番組スタッフがチョイスしてきたその時の茶の間が好きそうな旬でカジュアルな寿司をかじる。
よくおれのことを時事ネタだとか言う人がいるけどおれのネタはそれとは程遠い、たまにそれに手を出す時もないことはないけど、おれがみているのはいまのネタではない、過去に起きてまだ続いていて、忘れられている問題だ。
言うなれば今回のTHEMANZAIの漫才は、誰かにひとかじりされたまま干からび遠くの方で、誰にも手に取られず寂しく回り続けてる寿司だ。
ワイドショーやお笑い番組をみる視聴者の口は子供の口が多い。テーブルに並ぶ寿司は、手頃でウケやすいものだ。「沢尻エリカとピエール瀧が、同じ誕生日だった」みたいなマヨネーズコーン軍艦巻きを求めてる人は多いように感じる。
おれは空いた時間を見つけて日本中を旅する。必ずそこには悲しんでる人、怒ってる人たちがいる。おれの仲良しの吉本の社員に一度、「村本さんて悲しみを探すナマハゲみたいですね」と言われたことがある。常に「悲しい子はいねーがー?」と日本をウロウロしてるようにみえる、と。悲しい人を探しているというより、引きつけるような気がする。
おれは時間があれば独演会をやる。聞いて欲しい話が沢山ある。おれは写真を見て山をスケッチしたくない、それはおれがみた山ではないからだ。自分の目でみて耳で聞いて心で感じて頭で迷って、口から出てきた言葉でキャンパスに描きたい。じゃないと嘘では言葉がでてこない。
おれの独演会は今話したいことを60分しゃべる。それらの話はいつでも誰かの顔がみえる。60人乗りのバスに彼らを乗せ、笑いという目的地に運んぶ。劇場の漫才は10分だ、10人乗りのワゴンだ。60人のバスの中から10乗りのワゴンに選りすぐって乗せる。独演会のバスからだいぶ絞って舞台の漫才に連れて行く。
しかしTHEMANZAIは5分だ。5人乗りの車だ。ただでさえ、減らした人数をまた減らしてTHEMANZAIに連れて行く。今回は選ぶのが難しかった、当日の朝にやるネタを決めた。誰を乗せていくか、テレビ的に、連れてきてほしくない人たち、漫才師がここに連れてこないやつばかりだろう。舞台の時は、金髪野郎もワゴンには乗せられるけど、全国放送のあの場所に連れて行く車に乗せる時は、少しドレスコードさせるためにその金髪頭に帽子をかぶせるような作業もテレビに出る時には必要になる。
世間から叩かれてるものを叩くようなネタはどんなに笑いが起きてもその車には乗せない。それは美学だ。他の芸人の車にも乗れるようなやつも乗せない。あくまでも、もう誰も手をつけずにそこでひっそりと泣いてるようなやつだ。
いくら笑いが起きるやつでも、乗せるわけじゃない、聞く人を少し複雑な気分にさせるものを乗せたい。だからいつものおれの舞台の漫才が笑いを中心だとしたら、THEMANZAIはいいたいことが中心だ。100の笑いは簡単に取れる。それよりおれはこの場所では1発の強いトラウマを与える。
緊張感が足りない気がするからだ。それは不快感に感じるかもしれない。なぜなら、誰かがあの時ひとかじりした寿司をおれの手によってあなたの目の前に持ってきて、この魚にも家族がいるんだよ、と、説明するかのような時間かも。笑
人はそれを漫才ではない、というかもしれない。しかしあなたの思う漫才ではない、漫才の前にやるべきことは表現であり、怒りであり、メッセージだ。それはおれの思う漫才だ。その5分はおれのものだ、おれが、手に入れた5分。あなたのおもちゃとして気持ちよくはさせない、おれの好きなアーティストの言葉、狼はトラやライオンより弱い、しかし、トラやライオンと違ってサーカスで芸はしない。おれの漫才の今回のテーマは「みんなの中にいない人たち」だ。
いま友人のジャーナリスト堀潤が香港にデモの取材に行っててそこで命がけで政府と戦う若者を取材した時にその若者がこんなことを言ってた「正しいことは安全なところにはない」と。それは香港の彼らだけではなく漫才、表現でもそうだと思う。安心は誰かに任せておれは不安と対峙したい。スタジオには友人の堀潤にきてもらった、言葉が、迷わないようにキャッチャーミットに届くためには顔の見える信頼できる人をその場に連れてきたかった。テレビの前のあなたにむけて語る、年に一回、話を聞いてくれ。そしてこれだけは言えるのはもちろん、次の漫才は過去の作品を超えている。もちろんウーマンラッシュアワーの史上最高の漫才。
https://www.fujitv.co.jp/themanzai/
とりあえずおれは年に一回の大射精を終えいま賢者タイムですごく幸せだ。
※写真は漫才前にもらった堀潤からの誕生日プレゼントのベルリンの壁が壊れた時の石 。みんなの中にいない彼らとそのみんなの間にある壁を壊すような漫才をしてきた。