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北海道の虎と沖縄の龍

北海道で独演会をやるときによくきてくれてるふうかちゃんという24歳の若い女の子がいる。

ふうかちゃんは脳性麻痺で車椅子に乗っている。出待ちをしてくれて少し話し、そのあとFacebookで少しやり取りをした。ふうかちゃんは最初、一緒にわたしと一日一緒に街を散歩しませんか?みたいなことを言われた。最初は「え!おれのこと狙ってる?!笑」と勝手に勘違いをしたが理由は、彼女はわたしからみえるものをみてほしいと言うことだったんだろう。

興味深かったがたとえ好きな女の子でも2時間一緒にいれない人間が得意じゃない僕はその時、断った。

ふうかちゃんからみる社会はぼくがみる社会とは違うと思う。僕は好きな飲食店に入る、車椅子なら入れる店の中で選ぶ。それはなんとなく知ってることで本当に知ってることではない。

そうやって誘ってくれるふうかちゃんになにかしらの魅力を感じていた。

ぼくはスタンドアップコメディというスタイルのお笑いが好きだ。スタンドアップコメディは欧米のコメディのスタイルで、漫才とも漫談とも違い「意見」を大事にするコメディ。マイク1つで舞台で笑いを手法として意見を物申す。アメリカではオープンマイクというものがあり、誰でも気軽に飛び込みで参加してマイクを握る。僕の知り合いが見に行った時は普通の買い物袋をもった主婦が舞台にあがり旦那の悪口をマシンガンのようにしゃべって去っていったらしい。

アメリカのあるコメディクラブの支配人がこんなことを言っていたらしい「うちの劇場に出すやつはなにか言いたいことがあるやつだけだ」と。

ふうかちゃんにもマイクを使って言いたいことをスタンドアップコメディで発散してほしい、と声をかけたら面白そうだからやってみたいと言ってくれた。そのライブを前に観に来た人は知ってると思うけどふうかちゃんのステージは会場が爆笑に包まれるほどの痛快な笑いだった。しかも皮肉だったのは、ふうかちゃんのつかみだ。ぼくが司会でふうかちゃんを紹介するときに「お客さん、いまから出てくるふうかちゃんという女の子は脳性麻痺で、北海道から東京にきました、そして、たった一人でこの舞台の上でしゃべるんですよ、さあ、言いたいことぶちまけて!」と紹介し、客席の拍手をあおった。

そうして登場したふうかちゃんの第一声は「ひとりでしゃべるのは普通のことなのに拍手が来るのはおかしいと思います!!」だった。客席は僕の紹介に対するその痛快なアンサーに拍手喝采。おれは固まった。そのあとの絡みでその服おしゃれだね、自分で選んだの?と聞いたら「服ぐらい自分でえらびます!!」と一蹴され、客席はよく言った、の痛快な笑い。これこそスタンドアップコメディだった。スタンドアップコメディは社会に対するカウンターパンチだ。

黒人のコメディアンは白人社会にカウンターパンチを打ち、女性のコメディアンは男社会にカウンターパンチ、白人の男性コメディアンは政権にカウンターパンチを撃つ。そしてふうかちゃんは「脳性麻痺の障害を持ってる人はおそらくこんな感じだろう」というおれの無知な偏見に完璧なカウンターパンチをいれてきた(ちなみに吉本には脳性麻痺の鈴本ちえちゃんという女の子がいて彼女のネタは「よく、足をひきづってるとおばちゃんたちに「可哀想に、代われるものなら代わってあげたい」と言われますが、そもそも、あなたと代わりたくはない!と言うネタをやる。これがまた痛快な笑いになる)

僕は一度、ふうかちゃんに怒られたことがある。ある日、北海道で独演会があったから、ふうかちゃんに前説をしてもらおうと思った。しかし、事務所に言ったら「次の会場は階段だから、もし、万が一車椅子を落としたりしたら会社の責任になるから、車椅子はダメだ」と言われた。それをふうかちゃんに伝えて今回はやっぱごめん、というと、「なんでもう少しどうしたらいいか、を一緒に考えようとしないんですか」と怒られた。ぼくは「リスク背負うのは事務所で、それを責めるのもなあ」とダラダラ言い訳をした。それを友達に話したら「ふうかちゃんが言いたかったことは、危ないからダメ、なんじゃなく、例えば車椅子を運ぶのを、ふうかちゃんの友達にして、その友達は無料で入れてあげるとか、考えずにダメって言って欲しくなかったんじゃない」と言われた。

一方でずっと前から沖縄で独演会にきてくれる木村浩子さんという80歳のばあちゃんがいる。年齢に関しては、ここ3年ずっと80歳と言い続けてるらしいのでおそらく83歳だ。83歳とはいいながら髪を借り上げて紫に染めててロンドンの女ロックンローラーみたいなばあちゃんだ。このひろこさんも脳性麻痺でいつも沖縄のライブは車椅子で来てくれる。

浩子さんがおれのライブにきたきっかけは朝まで生テレビで僕が「自衛隊はいらない、尖閣諸島あげてもいい」と発言したのをみて、大炎上した中、この人は僕に興味を持ち、ライブにくるようになった。この人のパワーはすごい。軍隊を持たない国、コスタリカがあると聞き、そんな国があるならみてみたい、とコスタリカへ行った。空気に触れたい感じたい、そしてその上で考えたい人なんだろう。

聞いたところによると幼少期に戦時中、日本兵に障害を持った子は足手まといになるから、ここに置いていけ、と青酸カリを母親に渡してきたが、母親はそれを浩子さんに渡さず山の中に逃げ、ずっと2人で隠れて過ごしたらしい。それをのちの母親の日記で知ったらしい。その浩子さんはいま沖縄の伊江島とオーストラリアに宿を経営してる実業家。この前も浩子さんからオーストラリアに一緒にいかないか、と誘われ「え!おれのこと狙ってる!?」と勘違いしたが、どうやらオーストラリアの人たちを紹介したいと言われた。

その浩子さんが沖縄でフェスをやりたいから出演してくれと言われ(これまたパワフル)それならやつも誘おう!と、前から2人を出会わせたかったので、北海道のふうかちゃんを誘い、ふうかちゃんもフェスに出ることになり、なんと、この度、沖縄の地で、全く面識のなかった北海道の24歳の虎と、沖縄の自称80歳の龍が出会うことになった。おれの中では夢の共演。なんともファンキーでかっこいい2人。

そしてそのライブには沢山のお客さんが来ていた。浩子さんのためならといろんな人たちが協力をした。すごくいいお客さんだった。しかも客席には赤ちゃんからお年寄りから若い人から障害者の人まで沢山いた。エンターテイメントを見に行ってこんなに車椅子の障害者が入り混じったライブは初めてだった。

途中で手を叩き出す人、大きな声を出す人、最初はその光景になれずに、戸惑ったが、途中で少しつづ僕は思うことがあった。

これが社会なんだ、と。社会にはみんないる。彼らをいないようにしてないか、と。いま東京などで映画館やお笑いの劇場にいくと、こんなに障害を持ってる人をみることがない。車椅子の人はいるけど途中で大きな声をあげ出す人はいない、もしかしたら、その人たちの介護者や親、友達が、そういうところに「来にくい」思いをさせてるんじゃないのか。

彼らはずっとどこにいた、主催者が浩子さんだったからこのフェスには来やすかった。みんな楽しみたいのに楽しい場所にはいない。赤ちゃんが泣いたり騒いだりしたらまわりの目は、赤ちゃんだから、となる。だけどそれが大人だったら、大声を出してるのが、暴れてるのが見た目が大人だったら?まわりの目はどうなる?戸惑いを見せないのか。まわりの目とはなんだろう。この前、電車で独り言をずっと言ってる大人がいた。おそらく障害を持っている。満員電車の中で彼の両隣の席は空いていた。みんなが彼を空気にしていた。世間の目とはなんなんだろう。ぼくはこの浩子さんのフェスの客席を見回し、本来の社会を見た気になった。そしていろんなことを考えさせられた。

エンターテイメントはお客さんに選ばれるもの。みんながみんなの好きなものを選べる世の中になってほしい。自分がみたいものを誰でも気楽にみにいける世の中。自分が食べたい店、行きたい店にいける世の中。

おれは、なぜこの2人に惹かれるのだろう。ふたりは行きたいとこに行き、言いたいことは言う。僕は口もペラペラしゃべるし、手も足も自由に動く、だけど、言いたいときに言わない理由を探し動きたいときに動かない理由を探す。その場に立ち止まることを選び歳をとっていく。

彼女たちをみてると、いつも笑っている。のびのびキラキラ、ギラギラ生きてるのが羨ましくなる。僕は今日も難しい顔をして怒ってる。おれも彼女たちのようにありたい。

※写真は北海道の虎と沖縄の龍

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