冬道では欠かせないスタッドレスタイヤが日本で普及するきっかけ②
札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。
前回の続きです。
まず私たちが問題の解決のために最初に行動を起こしたのは、「スタッドレスタイヤの活用を促進する市民の会」の結成でした。
この会は、1982年(昭和57年)に、札幌弁護士会が主催した車粉問題を考えるシンポジウムがきっかけになって、その翌年1983年(昭和58年)に、北大工学部山科俊郎教授、関根和夫司法書士と私の3人が呼びかけて結成した会でした。
今ではスタッドレスタイヤが当たり前となっている社会ですが、1983年頃、乗用車の99%がスパイクタイヤを装着。健康に害があるからスパイクタイヤは使用すべきではないと主張しても、まともに取り合ってくれる人はいませんでした。
そんな時に同じ思いを持っていた山科先生と、関根先生に出会いました。
山科先生は車粉の危険性に問題意識を持ち、関根先生はスタッドレスタイヤの性能について関心をもっていました。
鉄道病院の平賀洋明先生も、犬の肺からスパイクタイヤのピンの破片を見つけ、警鐘を鳴らしていました。
後に宇宙飛行士となった毛利衛さんも山科研究室の仲間でした。
当初、私は、行政、警察、タイヤメーカーを相手に、徹底的に論争し、論破するしかないと主張しました。
しかし、山科先生から「味方は1%しかいない。99%を敵に回しても勝ち目はない。戦い方を間違えば孤立し、惨めに敗北するしかない。こういう時は戦わずして勝つ戦法をとるべきである。」と教えられました。
(次回へつづく・・・)