このサイテーな世界の終わりとキャッチャー・イン・ザ・ライ

画像1

最近、たまたまおすすめにあがってきたこのドラマを見た。

このドラマが、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のオマージュではないかと個人的に思ったので備忘録的にメモ。

ただ、今、手元に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が無いからそっちは記憶から引っ張り出す感じになりそう。(俺のキャッチャーどこいった)

この作品(シーズン1)は、ジェームスとアリッサという2人の少年少女が、普段の生活が嫌になり不意に逃避行に出るお話だ。

①1つ目の共通点【主人公の設定】

ジェームスもアリッサも、ホールデン少年も歳は17歳。子供でもあり大人でもあるそんな多感な年齢の少年少女を描いている。また皆、見た感じアッパーミドルな環境で不自由なく過ごしている点も共通している。

そして何より、ジェームスもアリッサも世の中のすべてが「インチキ」だと思っている。

アリッサが世の中すべてのものに「Fuck You」を突きつけているのも、ホールデン少年と同じであり、彼女は自分のことを「innocent(無垢)」だとも謳っていた。というかアリッサは口調がもうホールデン少年。

そして何より、物語の進行が彼らの語り口調によって展開されるのだ。この手法は『キャッチャー』の物語の展開手法とまったく同じで、彼らが誰かに話しているかのような描かれ方をしている。

②2つ目の共通点【シーン描写】

本作には『キャッチャー』のワンシーンを彷彿させるようなシーン描写が多々登場する。

例えば、アリッサが家を出る直前に、義父が開いたホームパーティを見下ろしているシーン。これは、退学直前にグラウンドを見下ろしているホールデン少年と同じだし、このあとアリッサが「クソくらえ」と家をあとにするシーンは、深夜に寮を飛び出るホールデン少年とぴったり重なる。

他にも、ジェームスが見知らぬ少年たちに殴られてぶっ倒れているシーンはまるで、ストラドレイターに殴られて鼻血を出したホールデン少年であり、もしくは、エレベーター係(モリーだっけな)に殴られるホールデン少年でもある。

③3つ目の共通点【テーマ】

ここまでも書いているが、本作で描かれているのは、世の中の「インチキ」から逃げ、そしてときに立ち向かい、だが最後はその流れを受け入れるしかない少年少女なのだ。それは、学校を去り、大人に立ち向かい、そして回転木馬のフィービーを泣きながら見守るホールデン少年と同じなのだ。

要は「大人になる」ということが描かれ、それがハッピーエンドなのかバットエンドなのかは、見た人に委ねられる。そんな終わり方も、この作品と『キャッチャー』が似ている点だ。

さて、シーズン2も見てみますか。

=====================================

その他考察

①ジェームスの左手は何のメタファーなのか?

・フライヤーでやけどしシワシワになった左手。老人性の象徴?ホールデンの白髪みたいな?

・『野火』で描かれる左手の解釈でいうと、「左手」は「理性」を表している。その左手に一生の傷を負い、理性が機能しなくなっているイメージ?ジェームスは最初はサイコパスとして描かれていた。

・母親の死の心の傷を、視覚的に表現している?

②その他登場人物

・アリッサの父親もある意味無垢な存在として描かれている?精神が子供のまま大人になってしまった存在。

・最初にヒッチハイクしていた2人を拾ってくれたおじさん。『キャッチャー』でいうアントリーニ先生?家庭も持ち子供もいる表向きは立派な男性。しかし、実際はペドフィリア的な一面を見せる。(アントリーニ先生の実態は謎のままだが)