コミュニティとの距離感覚。
コミュニティという言葉には、以前から違和感を感じてきました。私はこの言葉から、どうしてもコミュニティの内と外を隔てる境界をイメージしてしまいます。人と人の間に溝をつくるニュアンスを、強く感じるのです。
私の見方が少し偏っているのかもしれませんが、肌身の感覚としてもコミュニティはいつも歓迎されているわけではありません。例えば、新しい場に参加したときに、常連の方々の間につながりを感じると、参加しにくさを感じる人は多いでしょう。一般に人は、自分のコミュニティには心地よさを感じますが、他人のコミュニティには警戒心が高まるのです。
(自分の実体験としても、なるべく外に開かれた活動になるよう意識していても、「内輪受け」「入りにくい」と評されたことが何度もありました。つらいところですが、確かにそう見えるのでしょう。)
こういう自然な感情は、進化の過程で選択すべき(だった)ことを遺伝子が指し示す道具です。石器時代には今よりも小集団内の絆が静止を分けたでしょうし、それ以来の自然な感情がわき起こることは避けがたいですが、石器時代と同じ感情のまま行動に移していても、現代社会ではうまく機能しません。小さなコミュニティをつくって閉じこもりたい自然な感情とのつきあい方は、現代的な問題なのです。
その第一歩は、コミュニティの性質について意識的になることです。コミュニティには、機能的なグループからつきあいを大切にする団体まで幅広いタイプがあり、それぞれのタイプに特徴と陥りがちな課題があります。地縁型コミュニティといっても、村落・ニュータウン・都心では濃度に大きな違いがあります。コミュニティができること自体は避けられませんから、その性質を意識することが大切です。
次に、目的をもって人と協働するなら、その目的を明文化・形式知化すること。私も経験があるのですが、方向を見失った集団の中では、次第に中心との距離感や参加歴などによって発言力が決まりはじめます。
目的がはっきりすることで、参加者がフラットに関わることができます。自由に退出できるなど、新陳代謝を促すことも大切です。
最後に、コミュニティ同士の境界を曖昧にすることで、孤立を防いでいくことが大切です。神戸モトマチ大学は、学びを手段としてコミュニティとコミュニティをつなぎ、社会関係資本をつくるためにいろいろと工夫してきました。(その工夫については、かつてプレゼンテーションとしてまとめましたのでご覧下さい。)
コミュニティは、なんとなく「いいこと」と捉えられがちな言葉です。ましてや、人が集まるとコミュニティが生まれることは避けられません。だからこそ、時には鳥の眼でコミュニティを俯瞰し、コミュニティ内部のひとのつながりや、コミュニティ同士の距離をほどよく保つ意識が大切なのです。
参考文献:「なぜ今、仏教なのか」ロバート・ライト著
写真 :第一回コミュニティカレッジバックステージの集合写真