新卒の就活で内定を辞退して、フリーターになった私が選んだ道
新卒時の就職活動。
内定をもらって、承諾書を書き、内定式にまで出た会社を入社前に辞退し、4月、私はフリーターになった。
2009年、リーマンショックどんぴしゃの時期。
これにも自分の選択という意味で理由があるものの、短大卒ということでさらに求人は少なく、興味のある業界かつ短大卒が採用される会社は手当たり次第エントリーし、面接を受けた。
英語が使える仕事、人材会社、教育関係など、10社以上受けて、その中で内定をもらえたのが2社。
10年以上前なので今のように就職活動の情報があふれているわけでもなく、なんとなく周りの雰囲気も厳しい状況の渦中にいるのに、ほやんとしていた。
就職活動についても焦りは特に感じず、内定をもらえたし、とにかく4月から正社員として職につけるのだ、という安心感のみがそこにあった。
就職を決めたのは教育関係の会社で、営業職なのだろうけれど、アドバイザーのような職種名で募集をしていた。
子どもの未来をつくる、というようなコピーを説明会から内定式まで、何度も目にしたように思う。
子どもの教育に携わることは理解できていたものの、業務内容についてはあまりよく分かっていなかった。
説明自体をさほどされておらず、内定式では、とにかく未来をいいものにしようといったメッセージとまぶしい笑顔が並ぶ写真をいくつも見た。
内定ももらえたし、あとは卒業まで遊んで暮らすぞ、くらいにのんきに過ごし、さて入社前面談。
配属先は大阪市内のオフィス、私は大阪市内の実家に住んでいて、通勤時間は30分。
にもかかわらず、オフィスの近くに一人暮らしをするようにと命じられた。
推奨ではなく、義務だった。
このときまでその事実は一切告げられていなかった。
「あ、これはダメだ」
目の前のにこやかな笑顔の人事担当者を前に、さーっと自分が華やかな社会人、新入社員として輝く日々から遠のいていくのがわかった。
実家から通えることは、企業選びの優先事項でもあった。これではなんのために大阪本社の会社を選んだのかわからない。
会社の近くに住まなければならない理由をはっきりとは言ってもらえなかったものの、終電を気にせず働かせるため、であることは明らかだった。
このまま、新卒ブランドを失ってもいいのか。
悩んだのは少し。
それよりも直感が、やめておけと繰り返し自分にアラートを出し続けている。
逃げなければいけない。
そう決意し、内定辞退を連絡した。
辞退の手続きで再度オフィスを訪問したとき、あんなに笑顔だった人事担当者は蔑むような目で私を見た。
多大な迷惑をかけてしまったし、失礼なことではあったと思う。
私も今は社会人として、課長として働く中で、入社直前で辞退されることの苦労は充分にわかっている。
その会社にとっては、新入社員を深夜まで働かせるのは当たり前だったのかもしれない。
ただ、その事実をひた隠しにし続けて、甘いことば、キラキラしたものだけ見せるのはよろしくなかった。
今、その会社をGoogleで検索しても、何ひとつ出てこない。
内定を辞退したのが2月末、今から4月入社に向けて、再度就職活動をする気にはどうしてもなれなかった。
フリーターになるしかない。
ただ、お気楽能天気、夢見がちなところがあるので、そこまで悲観はしなかった。
憧れは山ほどあって、文章を書く仕事をしてみたい、広告業界で働きたい、世界一周をしてみたい…なりたい自分をふわふわと描きながら、食べ放題の焼肉店でアルバイトをした。
3月までは大学生だったのに、今はフリーター。もう学生ではない。社会に出て、働く身なのだ。
実家暮らしで生活費を稼ぐ必要もなく、親に甘えながら、自分にとっては真剣に、側から見ればのんきそうに生きていた。
その節は大変お世話になりました。親には一生、感謝をしている。
フリーターとして生活をして1年が経った。
この先、ずっとこのままなのか、それともどこかの企業で正社員になるのか、漠然となにかしなければ、やりたいことに向かって進まなければと焦りが生まれた。
当時、一番憧れていたのはコピーライター。
文章を読むことも書くことも好きな自分にとっては適職だと思えたし、何も知らない若造からすると広告業界はただただまぶしかった。
コピーライターの募集がそもそも少ないことも、誰もがなれるわけではないことも、わかっているようでやっぱりどこか楽天的な自分。
雇用形態にはとらわれず、広告を扱う会社でまずは働こう。
あの頃はiPhoneを持っている人が5割にも満たなかったのではないだろうか。
ガラケー片手に求人を探した。
「大阪 クリエイティブ 求人」「大阪 広告会社 求人」
キーワードをいくつも試して、ふと目に留まったのが、アルバイトをはじめとした非正規雇用の求人広告を作る仕事。
雇用形態はアルバイト。
求人広告の制作は、今、自分が目にしているような決まったフォーマット内で文章を書くのだろうことは想像がついた。
広告会社のイメージとは違ったけれど、人材業界も就職活動時に希望していたし、悪くはない。
文章を書く仕事であるのには変わりない。
まずはアルバイトとしてここで働きながら、第二新卒として面接を受けて、今度こそ広告会社に就職しよう。
宣伝会議のコピーライター養成講座にちょうど申し込みを済ませたところだったので、コピーライターとして働く未来を大前提で考えていた。
そんなこんなで面接を受け、無事、採用が決まった。
黒髪、おかっぱ、丸顔、童顔。
当時の写真を見返すと、恥ずかしくなる芋っぽさ。
会社で働くのは初めてで、社会人としてのマナーもまるでなっていない。
ただ、大卒社員ばかりの会社なので、22歳がまずいない。新卒社員よりも年下。その年齢ゆえに許された部分も多かっただろう。
何人か候補者がいる中で、あのとき、自分を採用してくれた上司と先輩には今でも頭が上がらない。
入社後は雇用形態を意識せず、正社員の先輩に追いつけ追い越せと働いた。
文章を書くことは苦ではないし、なんなくできてしまう。楽しかった。
とはいえ、目標はいつまでも広告業界にあって、土曜日にはコピーライター養成講座に通っていたし、時々、面接も受けていた。
ただ、今もこの気持ちはまったく変わらないのだけれど、職場の上司も先輩も本当にいい人ばかりで人間関係に悩むこともなく、とにかく居心地がよかった。
これって働く上ですごく大事なことだと、改めて思う。
入社から半年ほど経った頃、想像もしていなかった正社員登用の話をされて、流れるように正社員になった。
広告業界への憧れが消えたわけではないけれど、正社員としてこの会社で、この人たちと働きたい気持ちが勝った。
気づけば1年が経ち、2年が経ち、結婚をし、課長になった。
産休、育休をとって、復職して、今も同じ職場で課長として働いている。
あのとき決断をしなかったら、今の自分はいない。
内定を辞退せずに、その会社に就職していれば、たとえその後、転職することになったとしても、今の会社の同じ部署に入社する確率はとんでもなく低いだろう。
当時は新卒ブランドを失ってしまう怖さ、この先どうなるのだろうという不安と、それでいて自分はまだ何にでもなれる、なんて根拠のない自信とがないまぜになった日々を送っていた。
あれから10年以上も経った今となっては、今の会社にいる自分が当たり前になっていて、そうじゃない自分を考えるほうが難しい。
この経験を振り返って感じるのは、どの道を選ぶのかとても悩んで迷ったときは、自分の直感や違和感を信じることで道は開けるはず、ということ。
その決断がだれかに迷惑をかけてしまう場合、それは全力で謝るしかないし、その結果、代償だってあるかもしれない。
それでも、自分自身が選んだ道を歩き続ければ、見えてくるものがあるし、不思議な縁があったり、かけがえのない出会いがあったりする。
これでいいのだろうか、と迷って選んだその決断も、いつかよかったと思える日がくるはず。
そんなふうに、あの日の自分に声をかけたい。
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