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ハラサオリ「P wave」 の鑑賞記録


ハラサオリ「P wave」

ハラサオリ「P wave」の2024.5/10のゲネプロを鑑賞したので、その記録を書いていく。

ハラサオリ「P wave」



鑑賞の興味

私の鑑賞の主な興味は、本公演の演者であるハラサオリ、石川朝日、鈴木春香、藤村港平の4人のそれぞれの身体の動きの特徴や身体に印象付けられる物質的性質を比較しながら観察して、可能ならばその関係性を考える事。

鑑賞記録

鑑賞時にとったメモと記憶を頼りに、舞台上での出来事と私の思考を書き起こしていく。
※記憶や思考には主観的な偏りがあるため、事実と異なる場合がある。

ハラのトランスフォーム

開演すると、4人の演者はそれぞれ舞台四方の角へメトロノームと共に散らばる。4つのメトロノームの音がズレたリズムを奏でる。音が順々に静まると、ハラが舞台真ん中に出てきてソロが始まる。

ハラの視線はこちら正面の客席に向いている。しかし、視線は客席の私にまで届かず、舞台と客席のちょうど間に透明な壁があり、そこに向かって吸い込まれているような虚ろさを感じる。

静止していたハラが動き出し、身体全体がポンプのように一定のリズムで上下する。ハラが自転車の空気入れになったように見える。

身体全体がポンプのように上下する動きは、腕を上下に振り、手で太ももの表面を叩き擦る部分的な動きに変化する。

すると、腕を上下に振る動きは、肩の関節を中心にして腕を回転させる動きに変化していく。
腕の回転は徐々に大きくなり、遠心力で外に向かって飛んでいきそうなくらい広がる。

回転が止まる。どうやって止まったのかは覚えていないが、回転の勢いは、身体が前後に小さく揺れる動きに受け継がれながら、身体にしばらく残っているようだった。そして、前後に揺れる動きも徐々に収まって、身体は静止に向かっていく。

他3人の演者も舞台中心に集まってくる。それぞれの身体は、まるでビー球がゆっくりと転がるようなスピードで移動して、お互いがぶつかって、移動して、止まるように配置されていく。

ここで私が彼らの動きに、ビー玉がコロコロと転がる事を重ねて想像したのは、ハラの腕の回転の勢いが、私の中に印象として受け継がれて、しばらく残っていたからかもしれない。

藤村の揺れは一期一会

4人が同時に動いている時、藤村の動きが他3人に比べて自然体に見えた。それはなぜか。また、舞台上での自然体な動きとは何か。

4人は猫背になって、両足を大きく広げ、一定のリズムで身体を左右に傾けたり、腕を上下に振ったりして揺れている。そういった身体の揺れにおいて、藤村は他3人に比べて、ニュートラルな身体の角度を持っていないように思えた。他3人の身体は揺れにおいて、比較的に決まった傾きの角度で反復する。藤村の身体は揺れる度に、毎回バラバラの角度を示し続ける。

私は藤村の揺れる姿から、身体の頭部から上半身にかけて、とても柔らかい軸棒が入っているのを想像する。棒の柔らかさは、こんにゃくのような弾力と反発性のあるものではなく、油粘土のような反発性の少ない不可逆的なものだ。なので、例えば右に傾いたら、反発する様に反対の左に傾く、といった振り子の力学が働かず、藤村は傾く度に、「左に傾いたら、こんな角度と出会い、次は右に傾いたら、こんな角度と出会い、次は左に傾いたらこんな角度と出会い…」という具合に、毎回の傾きの角度と一期一会していると思われる。これを藤村の「一期一会の揺れ」と言いたい。

ここでの揺れの振り付けは、一定のリズムで再現性かあるにもかかわらず、藤村の「一期一会の揺れ」では、再現性のない一回きりの動きが揺れる度に強調される。腕を反復的に振り下ろす際も、腕の角度と振り下ろす速度、リズムが他3人に比べてズレていて、バラバラなのだ。

藤村のこの様な動きの特徴は、振り付けを上演する「演技」というよりも、現在の身体の状況にその都度即興的に対応している「自然体」なものだと、私には思えたのかもしれない。藤村の動きの「自然体」は、舞台上での反復的な振り付けにより際立って見えてくる。

私は藤村が、前もって作られた振り付けを人前で上演するという行為を、普段から行っていない人に見えた。舞台上に一般人が演者達に紛れて、日常的な動きをしているようにも見える。
そもそも日常的な動きとは何かという疑問も湧いてくるが、彼の動きに対して抱く印象についての問いはひとまず保留しておく。

石川の身体が色々硬い

石川の身体は頭部、首、胸部が強く繋がって固定されているように見える。
特に身体が激しく動いている時、胸部に1枚の金属製の板が張り付いている様な、硬くて重い物質の印象を抱く。

私が思い出したのは、バスケットボール選手がスリーポイントのシュートをジャンプしながら打つ時の身体だ。ピンと直線的になって空中で静止して、肉体が急に硬い物体になる。石川の身体の各所にその様な硬さを見る。石川の身体の硬さは、藤村の「一期一会の揺れ」と並ぶと、より際立って見えてくる。というのも、石川の硬さは身体そのものに見る物質的印象だけでなく、動きにもあるからだ。

石川は両足を大きく広げ、中腰になって、腕を体の前で弧線状に激しく振っている。あらかじめ決められた軌道に忠実に、寸分も狂わずその動きをこなしているようだ。それが一定のリズムで繰り返されるので、私は彼の動きに機械的な印象を覚える。溜めてから勢いよく振られる腕。その抑揚に反して胴体と腕の内部には、ずっと力がこもっているようだ。どっしりと重いものが、勢いよく、しかし一定の軌道に忠実に反復的に振られるところに、私は線路上を列車がかけめぐるのを想像した。重い鉄の塊が、すごい速度で、轟音を唸らせて何度も走る。

腕を振る時、力が入ってからか、首や肘窩(肘の内側)に大木のごとく血管が浮き出ている。その時、石川の身体に印象付けられる硬さは、身体の各所ごとに性質を変化させ差異化する。

腕振りの最中、首すじと肘窩の表面に浮き出る血管や筋の集合によって、高密度に連なる筋繊維と肉の塊の硬さが印象付く。筋繊維と肉の硬さは、「胸部に見る板」「動きに見る列車」らの金属製の硬さの間に関節のように挟み込まれる。それらの異なる性質の硬さは、一つの身体の中でせめぎ合いながら、腕を振る度に、浸透し合っている。その動きの反復の度に、金属に溶接された肉の繊維が伸縮して、激しく折り曲げられたり引っ張られたりする感覚を私に覚えさせる。

私がその様な観察を石川の身体に行っている一方で、ハラは1人舞台の角で寝そべって、ストレッチするように身体を折り曲げて、しなるような柔らかさを静かに示していた。

石川と藤村の「揺れているかどうか」

藤村がある動きをする。石川が「揺れている」と言う。藤村は「そっている」などと揺れている以外の言葉で応える。藤村が前とは別の動きをする。石川が「揺れている」と言う。藤村が「蹴っている」などと応える。このやり取りが反復する。徐々にやり取りは激しくなり、石川は「揺れているよね?!」と強く同意を求めるようになり、藤村はお構いなくあらゆる動きをして、「こすってる」「もちあげてる」などと応え続ける。

このシーンをシーンAとすると、シーンAでの2人のやり取りでは何が起こっているのか。

シーンAにおいて藤村は、ある動きをする度に、動きの前後どちらか、またはどちらもに、その動きがどのような意味を持つ行為なのかを言葉で捉える機会を設けている。つまり、動きを「計画または反省」する機会である。この機会は反復する二人のやり取りの間にはさみ込まれて、直前後の動きに反映される。その事は、藤村が声に出して機会に臨む事で、可視化されている。

一方で石川は、シーンAでの藤村の動き全てに「揺れている」という固定した解釈を与えようとしている。藤村の動きの「計画または反省」の機会をかき消して、全て同じ意味の行為に統一化しようとするかのようだ。

反復するやり取りに対しての2人の態度の違いは、前述した2人のそれぞれの身体の動きの特徴と物質的性質の話と繋がってくると考える。

藤村はシーンA以外も、例えば反復する動きの合間、一往復の動きの前後に「計画または反省」の機会を声に出さずとも設けて、それを直前後の動きに反映させているのではないか。それにより、不統一的な動きが、不規則的なリズムで反復される。その不恰好さから、前述したように藤村の動きに「自然体」の印象を私は感じたと考えられる。

一方で石川も、シーンA以外でもシーンAと通ずる態度を身体と動きによって示していたと思う。石川は、ある動きを反復する際、一往復の動き毎に、「計画または反省」の機会を設けずに、再現性のある一定のフォームで統一したリズムで行っているように見える。フォームとリズムを頑固に統一させるために特化した身体として、頭部から首、胸部にかけての固定的な硬さがあるのではないか。そしてそのどっしりと重みのある身体の各所を、一定のリズムとフォームで豪快に動かす事によって、機械的強度からなる線路を走る列車を私に印象付けたと考えられる。

蹴るような動きを反復させる時、藤村と石川の態度の違いを表した図



シーンAのスケッチ。


藤村の日常的な動き

藤村の動きに対して「一般人が演者達に紛れて日常的な動きをしているように見える」と前述した。私が想定する一般人の日常的な動きとは、私たちが生活する中である程度の共通性を持つ行為によるものだ。例えば、歩く動き、走る動き、座る動き、コップに水を汲む動き、呼吸する動き、など。

これらの日常的な動きを考えた時、シーンAで明らかになった石川と藤村の二人の態度の異なる動きは、どちらも日常的な動きの特徴に当てはまる事と、そこにリズムの違いがある事が判明した。こうして日常の動きは二つのリズムに分けられる。

一つ目が、石川の動きの特徴に当てはまるもので、一定のフォームとリズムで反復するリズムである。反復の中にいちいち「計画または反省」の機会を挟み込まない。歩いたり、走ったり、呼吸する時の無意識的に行われるリズムがそれにあたる。

二つ目が、藤村の動きの特徴に当てはまるもので、一つの動きの前後に「計画または反省」の機会を挟み込んで、それを直前後の動きに反映していくリズムだ。コップに水を汲んで、その後にそれを飲んで、テーブルに置く、などがそれにあたる。

(もっと細かく考えていくと、歩いてて転んだ時や、食べ物を噛む時など、二つのリズムが混ざり合う例外もたくさんあるが、ここでは深掘りせず。)

二つの日常的リズムのうち、一つ目と親和性のあるリズムが演者達の身体には染み付いていると考えてみたい。
これは仮説だが、舞台上の演者達は決められた(それが具象的か抽象的かは問わず)振り付けに沿った動きを、複数の上演毎に反復する。つまり、演者は一上演を一歩として、一定のリズムとフォームで最終日まで歩くような、反復のリズムを課せられている。上演の反復により、舞台という限定された場にもう一つの日常が作られ、一つ目の日常的なリズムの舞台バージョンとしての固有のリズムが生まれる。これを「舞台上の日常的なリズム」と言いたい。「舞台上の日常的なリズム」を課せられた演者には、舞台上でのその人特有の動きの癖が育ち、舞台上で無意識的にそれが出る。そういう「舞台用の動きの癖」が演者にはそれぞれある事を、偏見であっても私は想定してしまう。

例えば、鈴木の動きに「舞台用の動きの癖」の片鱗を見る。鈴木がソロで動いている時、勢いをつけて斜め上にジャンプ、その後つま先からかかとの順にクッションを効かせて地面に着地する動きの滑らかさ。または、あらゆる動きのバリエーションをすごいスピードで切り替えて連続していくスムーズさから、バレエによる「舞台上の日常的なリズム」から作られた、「舞台用の動きの癖」が身体に染み付いていると感じた。(鈴木のルーツにバレエがある事は後でパンフレットを見て知った。)

藤村に戻ると、前述のように藤村は連続する動きの合間に「計画または反省」の機会を設けて、それを直前後の動きに反映する事で、「舞台上の日常的なリズム」を裏切っている。「一期一会の揺れ」もそこから生まれる。それゆえ、「舞台用の動きの癖」は藤村の身体に染み付かず、私は藤村という演者が一般人に見えて、日常的な動きを行っているように感じたのだろう。または、藤村の不規則なリズム自体が、彼の「舞台用の動きの癖」でもあると言えるかもしれない。

だとしたら、この不規則的なリズムは、どう実践されているのか。シーンAの時のように、一つ一つの動きに行為名を名付けるような、言語的思考によってか。それとも動きの連続性の中で身体に暫定的に作られる非言語的な秩序のようなものがあるのか。それは、いつ作られているのか。日常か、舞台か、それとも舞台上の日常か。

シーンAでの石川と藤村のやり取りは、それぞれの身体と動きの個性が演技によってメタ的に強調され、差異的な関係性を示しながら浮かび上がっていた。シーンAの最後、藤村の動きは、ハラが藤村の身体を上からゆっくり押さえ込むようにして静止する。

鈴木の水上走行

鈴木の動きは、弧線を描くような柔らかいものが多く、他3人に比べて、ニュートラルな印象がある。後半のあるシーン、鈴木は両足を左右に開いてしゃがんで、前方に飛び跳ねる動きを反復していた。鈴木の動きは、ある地面から別の地面に波打つような弧線の連続を描く。まるで、地面が反発のない水面のように柔らかいもので、その上をお尻と両足で跳ねているようだ。実際、鈴木のお尻は地面には着いていないのに、着いているように見えた。私はグリーンバジリスクの水上走行を想像した。

グリーンバジリスクの水上走行↓



ハラのじだん踏み

後半のあるシーン、ハラは猫背になって、足を思いっきり左右に開いては急に動きを止める。鈴木のしゃがんだ時のフォルムと似ている。しかし、鈴木はそこから重心を斜め上に向かわせて浮遊してくのに対して、ハラは四股を踏むように片足を高く上げてから、地面を思いっきり踏みつける。その衝撃で、重心の位置や、中心軸がズレて、身体のバランスが揺らぐ。演者に課せられた「舞台上の日常的なリズム」を破壊しようとする象徴的行為にも見える。また、じだんを踏んでいるようにも見える。何か行き場の無い事のジェスチャーにも見える。冒頭、ハラの視線はこちらを向いていながら、私には届かなかった。視線には行き場を持たぬ虚さがあった。では、じだん踏みによってハラが込めた重心はどこに向かうのか。

重心は、地面と相殺して水平に分散し、そのまま身体も水平に圧縮される予感を感じさせる。つまり、重心は地面から自身の身体へと振動になって跳ね返る。この振動は、身体が一つの物体として、水平への圧縮に対して内側から抵抗する時の震えである。まるで、地面からペシャンコに踏んづけられる事に耐えるように。


演者達の身体と動きのスケッチ

演者達の身体と動きのスケッチ


あとがき

スポーツを観戦するように、何かをやっている人の身体とその動きを観察して、その人の個性がどう在り、どう作られてきたのかを思考するのが私は好きだ。今回の作品鑑賞においても、演者達を観察して、その様な思考を進めていると、その人の身体に見る強烈なイメージがふつふつと浮き上がるように生成されていく事があった。それはもはや、その人の個性かも分からないし、私の鑑賞時の体験から出たものかも分からない。そういったイメージの出現を書いていく事は、自分のコントロールの範疇を超えた力に触れているようで、魅惑的な価値を感じる。その瞬間、作品鑑賞が、その作品との共同的な制作に転化する。

私が鑑賞記録を発表するのは、作品鑑賞を通して他者と関わり、共同的にそこで起こる事を制作へと転化させ、それを鑑賞対象となった作品にまで反響させたいからだ。
そうする事で、私達は作品とお互いが実体あるものとして関わり合えると思っている。

2024.5/18

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