同じ時給なら手抜きするのが賢いの?

ここ1か月くらいは、心の友との会話をヒントに考えたこともたくさんありましたが、自分の中の「働くこと」や「怠惰・勤勉」について思いを馳せることも多かったです。他の公務員時代の友人とも話す機会があり、その時にも怠惰な人間とその尻拭いをする人々の話が出ました。昔から正義感が強く、掃除や給食当番をサボる人々に不満を抱きながら、黙々と作業をしていた自分にとっては、大きな人生のテーマだなと思います。公務員を辞めてしまった精神的な原因も、その辺りのことにありましたからね。

先日、心の友にもこの話をしてみたところ、友人はサボる人に対しては特に何も思わないと言っていて、「やっぱりこれは私の心の問題なんだわ」と思いました。確かに友人(幼馴染)は小学校の頃に掃除や給食当番をサボる側の人間だったかもしれません(笑)。今も職場に仕事をしない人がいるそうですが、そんなに愚痴や不満は言いませんからね。「外の世界に意味はない」とはよく言いますが、同じ出来事に遭遇してもそれをどうとらえるかは本当に人それぞれで、それぞれが内面の世界を生きていることを実感します。

私は以前から公務員時代に働いていた時の不満として、仕事をいくらやっても給料は増えないどころか、仕事が余計にふってくるだけだし、早く終わらせてもダラダラ残業をしている人より給料が低いのはどうなのだ?というようなことを感じていました。仕事の出来不出来にかかわらず給料が一定なのであれば、サボった方が得ではないかと思う人がいるのは当たり前です。そんな職場であれば、人々は自分のパフォーマンスを上げようとはしませんし、給料泥棒的なことをする人が増えていきます。だからこそ、給与体系を見直さないといけないだろう、という意見も書いてきました(給与体系をとにかく見直すのが先決の記事など)。

もらえるお金が同じなら、なるべく手を抜こうと考えるのが、多くの人間であり、「サボった方が賢い」くらいに思っている人もいると思います。私も時給制度(固定給制度)なら、確かにそう思う人が出ても仕方がないなぁと感じます。本来は時給に関わらず、全力で働くのが筋だと思いますし、もっと言えばお金をもらわなくてもやりたいと思えるようなことをやってお金をもらえるのが幸せだろうと思うのですが、いくらやってももらえる額が変わらないのであれば、やる気が起きないというのもわかります。世の中、純粋で奉仕精神にあふれた人はごく少数で、ほとんどの人が貪欲で怠惰で強欲です。であれば、外側の制度を変えて、素晴らしい働きをする人にはプラスのインセンティブを与える制度にする方が、まっとうなあり方ではないかと感じます。

私がサボる人や怠惰な人に対して批判的な目を向けてしまうのは、自分自身が怠惰でサボりがちな人間だからに他ならず、自分の否定したい側面を外側の世界に見ているだけなんだなぁということもわかっています。自分も楽な方、楽な方に流れようとする性質はあるし、そういう意味ではいつも100%全力で生きているわけではないなぁと感じます。自分の中に甘えがあるなと感じることや、ちょっと楽したいな~とか、あとでやろ~とか、思うことはよくあります。これも母親から受け継いだ(負の)遺産のようなものです。怠惰な母親は私が怠けているところをひどく批判しますが、自分こそ怠惰でいつも楽をしようとしています。私には、「親に手抜き育児をされた」というトラウマ・思い込みがあり、「母親は大変な子育てを放棄して、楽な仕事に逃げた」という観念があるように思います。私自身の怠惰な側面、怠惰な人を批判する気持ちの原点はこの辺りにあると見ています。自分の内面を見つめ直し、他人が手抜きやサボりをしていようと関係なく、自分は気持ちよく全力で働けるように、さらに自分を磨いていきたいと感じました。

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