何かを信じる純粋さ、すべてを疑う賢さ
私が日ごろ他人との人間関係を築く中で、いいなぁと思う方の特徴の一つに「心がきれい、純粋である」ということがあります。これはもちろん主観的、感覚的な話であって、誰にでもわかるように特徴を羅列できるわけではありません。それでも、「この方といると純粋さを感じるなぁ」と思う場面はあって、自分の心が洗われるような感覚になることもあります。深く関わる人は、心がきれいで純粋な人であってほしいなといつも思っています。
ただ、純粋な人の落とし穴みたいなものがあって、世の中の情報をそのまま真に受けてしまったり、信じ込んでしまったりして、せっかく純粋な気持ちで生きていても、知らず知らずに悪や闇に加担していることが結構あるということです。というか、多くの人がそうなのではないかと思います。公務員として働いていた時も、純粋な方と言うのはたくさんいらっしゃいましたが、政府のやることは良いことだ(国民のために働いている)と信じ込んでいたり、ワクチンや薬に対して何の疑いも持っていなさそうな方も多数いらっしゃいました。純粋であるのはいいことだと思いますが、無知や思考停止のままだと、支配層に良いように扱われる愚民そのものということになってしまいます。
そういったことを考えると「賢さ」というのもとても大事な要素だなと感じます。もちろん、勉強ができるとか試験でいい成績を修められるといった意味での「賢さ」ではなく、世の中のしくみや本質を理解するという意味での「賢さ」です。何かを信じる純粋さと、あらゆるものを疑う賢さ、その両方が必要だろうと思うんですよね。多くの人が、政府やテレビの言うことを信じる純粋さと、トンデモや陰謀論を疑う賢さ(?)を持っているように思いますが、それは本質とはまるっきり反対のことをしているように見えます。
これまでの記事で、エゴまみれ、欲まみれになっている人に対して批判的なことを書いてきましたが、実際はそこまで極端に欲まみれな人というのは私の周りにはいませんし、いるところ(支配層、有名人、著名人)には多数いるけれど一般庶民の中にはそうはいないと思います。実際一般庶民の中で一番多いのは、「純粋だけれども政府やマスコミの言うことを信じている人々」であり、世の中をひっくり返せるかどうかというのは、その辺りの人々の意識次第というところが大きいのではないでしょうか。多くの方が世の中が本当に良くなれば良いと思っているはずなのですが、無知、思考停止であったり、あらゆるものを疑ってかかる賢さが弱いために、世の中全体が良くならないということはあると思います。
私はこれまであらゆる情報を疑ってかかってみるというある種の訓練をしてきて、物理的次元の情報操作くらいはまだまだ浅瀬だなと感じるようになってきました。コーヒーは身体に良いとか悪いとか、そのくらいの情報操作はまだいいのですが、一番根本的にやられているのがやはり思想の部分だと感じます。前々から書いているように、私たちは大衆的な思想が意思決定の根拠になっていることが本当に多いんですよね。「成功、有名になるのはいいこと」「勝つために頑張るのはいいこと」「働きながら子育てするのはいいこと」「無職は悪いこと」「いい年して実家暮らしは甘え」「夢を追うのはいいこと」etc…挙げればきりがありません。あまりにも当たり前になっている思想は、なかなか疑ってかかることもできなかったりします。当たり前すぎてその概念があることにも無自覚だからです。純粋な人ほどその通りに信じ込んでいる可能性が高いと思います。心がきれいで純粋な人は本当に素敵で、どうかそのままでいてほしいと思うのですが、無知、思考停止というのはいただけません。純粋な心を持ちながら、本質的に賢い人がもっともっと増えることで、世の中はどんどん変わっていくだろうと思います。
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