「性」のタブー感と資本主義
昨日の資本主義より大きな「男性原理」の終焉という記事の最後に、男性原理と女性原理の学びが大事だという話を書きました。このテーマについては、1月2月にかけて熱心に取り組んでいたので、記憶が新しいうちに書いてみたいと思います(笑)。私がここ2か月ずっと読んでいたのは、主にレオナルド・ダ・ヴィンチに関する本、キリストとマグダラのマリアに関する本、老子に関する本です。西洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ、東洋の老子と呼ばれる二人の天才が作品に残した謎に触手がのび、有名な小説『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン著)と、『タオ・コード』(千賀一生著)という本を読んだりしていました。この2冊は男性原理・女性原理を学ぶ上での推奨図書ですね。
こういった本を読んだり、色々と勉強を進めてみると、ダ・ヴィンチも老子も同じことを言っているのだな、ということがわかりますし、二人とも女性原理を支持(というのか?)していることもよくわかります。あとは、「性」に対する認識も大きく変わることと思います。キリスト教は性に関するタブー感を人々に植えつけましたが、本来はそういったけがらわしいものでは全くなく、むしろ神聖な行為であるということです。今のこの世の中がゆがんでいるのは、性に対する誤った価値観や抑圧、見たくないもの、見てはいけないものとして世の中から排除してしまっていることが根本原因にあるのだな、ということもよくわかります。
主に『タオ・コード』の方のネタバレのようになってしまいますが、資本主義原理が成り立っているのは、「性の抑圧」と大きく関係があるのだそうです。男女のエネルギーの交わりによって新たな生命が誕生する、誰もが男女の交わりによって生まれている。人として生まれてきている以上、本能的に性欲というものはあります。それなのになぜその行為は見てはいけないもの、けがらわしいものとして目に見える世界から排除されることになってしまっているのか?この本によると、人々のその抑圧された性の欲求が、資本主義的な購買意欲の原点にある、といったことが書かれています。性が抑圧され、満たされないからこそ、モノが欲しくなる。欲の転化。だからこそ資本主義が成り立つということだそうです。それを読んだ時、なるほどね、と思いました。もっと性がオープンになれば、人々の心の荒みは減るだろうし、(直接的に言えば)性犯罪なども落ち着くでしょう。本当にざっくりとかいつまんで書いているので言葉足らずなのはご容赦ください。
性の抑圧のために、(主に)男性の欲が肥大化し、女性を支配するような意識になっているというのは誰しも納得のいくところかと思います。ただ、それはこの2000年紀が男性原理の優勢な社会だったからであり、地球の歴史を見るとそれは一時的なものであることがわかります。例えば、エジプトの神話などでは、王様の意識を覚醒させる(宇宙とつなげる)ために、女性が性的な奉仕をしていた、ということが伝えられていたりもしています。日本だと縄文時代においては、人間の性をかたどった石像や土器のようなものが数多くつくられていて、少なくとも現代人よりは性についてオープンであったろうし、男性原理と女性原理に対する理解も深かったのだろう(むしろその原理ですべてを理解していた)と思われます。他にも書きたいことはいろいろあるのですが、「日々のコラム&エッセイ」の拙noteの限界を感じているので(笑)、あとは読者の皆様方でお調べいただければと思います。それか、今後開催予定のオフ会やイベントなどでお話してみるのも良いかなと思っています。
性について、そして男性原理、女性原理についてを深く理解し腑に落とすこと、そして、これから一人一人が真剣に性と向き合っていく必要があるということをひしひしと感じています。私自身が、性に対するタブー感が強くあるタイプなので、なかなか最初は「えーっ」と思うこともあるのですが、それでもこの大きな社会の転換期において、性についての認識を改めていくことは避けては通れないのだなと感じています。現代社会の3大タブーと言われる、魔女、大麻、セックス。抑圧されているのは理由があり、それはもちろん支配する層にとって都合が悪いからです。既存の社会を破壊して新たな価値を創造していくためには、タブーを見つめ直すことも必要です。今までの思い込みをぶち壊し、新しい共同創造の時代のあり方を皆様と共に考えていけたらなぁと思っています。
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