日記 2022年4月7日
夜勤明け。
帰宅ついでに買い出しをすませる。
眠気もあるが、その眠気すら心地よく感じる春の空気。
民家の塀から1本の枝垂桜が顔をのぞかせている。
俯き加減にもみえるその顔を、覗きこむように私は見上げる。
道沿いにたくさん並んで咲く桜もきれいだけれど、たった一つ置かれてある桜もきれいだなと思う。
パステル調の風景が流れていく。
赤信号になり、自転車を止める。
道路の向こう側には中学生か高校生らしき集団がいる。
こんな時間にめずらしいなと、不思議に思う。
信号が青になり、ペダルを踏みだす。
少しすると、〇〇高校入学式とかかれた看板が目に入ってきた。
そうか入学式だったのかと納得する。
15歳の私が、この光景を見たらどんなことを感じただろうか。
ふと、そんなことを思った。
当時の私はほとんど鬱のような状態で、一日中布団の上にいた。
入浴もできず、食事も2日に一食だけという日もあった。
テレビから不意に流れる入学のニュースや話題を見るのが辛かった。
一度、社会のメインストリームから外れると、社会と私の間には大きな壁ができた。
あるいは社会そのものが巨大な壁となって立ちふさがった。
同級生たちは皆、高校生になった。
皆は動く歩道にのっているかのようにすいすいと進んで行く。
一方の私の前には壁が立ちふさがっていて動けない。
社会とはある人々にとっては便利な動く歩道で、ある人々には壁のように作用するものなのか。
私は中学と高校の入学式を経験したことがない。
通信制の高校には入ったけれど、秋ごろの入学だった。
(初めてのスクーリングが体育祭で、当時24歳だった私は年長ということもあり団長に選ばれた。そして、なんと私たちの団が優勝して、優勝旗を私が皆の前で受け取ることになった。緊張で足がふるえたことを覚えている。このことはまた別の機会にでも書くかもしれないし、書かないかもしれない。)
今の私は、高校生になったばかりの学生を見てどう感じるのか。
少し考える。
少しの切なさはあるかもしれない。
でも、私はもしもあの時に不登校になっていなければ、とか、もしもあのとき別のことをしていたらという思考をあまりしないほうだ。
その理由はわからない。
もしもなんてことを考えていたら、私は自分の人生に耐えきれなかったのかもしれない。
あるいは、不登校となり、ひきこもっていたころに感じたことや、考えたこと、そこから生まれた言葉(詩)に出会えたことにどこか満足しているところもあるのかもしれない。
これはイソップ寓話にある酸っぱい葡萄なのかもしれない。
私はキツネで「きっとあの入学式は酸っぱいに違いない」と言っているのかも。
もしかしたら、私も春のあたたかな日に、おろしたての制服を着て、新しい友人と出会い、入学式を終えたお昼前に、駅や自宅に向かう道を歩いていたのかもしれない。
それはそれで良いなとも感じる。
今の自分を傷つけないためだけに、そんなもしかしたらをやっきになって否定するのも違う気がする。
もしも今、過去にもどれるとして、この現在につながる道をもう一度歩むかと聞かれたら、私はどうこたえるだろう。
「今とは違う選択をする」と答えるのはさみしい気がする。かといって、「何度でも同じ道を選ぶ」といえる自信もない。
今言えるのは、一本で咲く桜も、並んで咲く桜も綺麗ですよね。ということぐらいだろうか。
どちらが良くて、どちらかが悪い、あるいは、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているということでは決してない。
今のこの季節、複雑な思いを抱えている人は多くいるのだろう。
不登校やひきこもりの本人はもちろん、町中でみかける新入生や新社会人をみて葛藤をいだく親御さんもいるだろう。
そのような人たちが、ほんのわずかでも葛藤の外に出て、目の前にある桜を眺めて、なんか良いなぁと思える時間があればと願う。
この春が高く冷たい壁ではなく、陽の当たる広場のようなものでありますように。
2022年4月7日(木)
今回は突発的に日記を書いてみました。
ちなみに、私の実家の窓から見える景色のなかに桜はありませんでした(笑)
そのかわり梅の木があったので私はひきこもりだった13年間、春が来ると窓辺で梅の花を眺めていました。
梅の花も渋くて良いものです。
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