解熱2
(続き)
僕は、夢の中で祖父に包丁の研ぎ方を習っていた。
いやに狭く、暗い空間だった。付いたり消えたりを繰り返す蛍光灯の元には、アルミの流し台がポツンと設置されている。流し台といっても工業製品のように規格化されたものではなく、木の机に自前でアルミホイルを貼り付けて作ったかのような古い流し台だった。流し台の中はそこら中が黒ずんでいたし、ところどころアルミが剥がれて木が露出して腐っていた。
僕にはここが実家の階段の下に設置された物置の中であることがわかった。実際に存在する場所だ。その物置はちょうど人が2人入れるかどうかの空間で、使われなくなった古い炊飯器や食器、そして工具などが所狭しと納められている。古くなって表面の印刷が掠れてしまったダンボールはどれもホコリを被っており、いつも物置に似合った懐かしい匂いがしていた。しかし、夢の中ではそういった匂いは全くしなかった。そういえば、夢の中で匂いを感じたことがない。祖父が死んだ後も、物置の中身はそのままになっている。
祖父はゆっくりと腰をかがめて、流し台の下の扉から茶色い研ぎ石を2つ取り出して流し台の横の空間においた。2つの研ぎ石は微妙に色が異なり、1つは薄茶色で、もう一方はもっと色が濃かった。何度か落としてしまったのだろうか、2つの研ぎ石は綺麗な長方形ではなく、角が割れて歪な形をしていた。
「トシアキ、覚えておくんだ。砥石は必ず使う前に水につけておかなくてはならない。最低でも10分だ。水をよく含ませろ。そして、まず濃い方を使ってよく研いでから、仕上げに薄い方を使う。濃い方が表面が荒い。わからなくなったら、指で触ってみればわかる。いいか、最初は表面が荒い方を使うんだ」
祖父は、彫刻家だった。だから実家にはアトリエがある。祖父は高校生の時に大阪から上京してきて、東京藝術大学で彫刻を学んだ。卒業後は美術学校を開いたり、大学の講師などをしていたらしい。日本は高度経済成長期に差し掛かったあたりだったが、「昔はずっと貧乏だった」と父は言っていた。曽祖父は大阪で商人をやっていたらしいが、なぜ祖父は彫刻家を目指したのだろうか。その理由を、祖父からも、父からも聞いたことはない。
僕は水道の蛇口をめいいっぱい開いてコップに水道水を流し込んだ。水が飛んでパジャマが濡れたが、気にせずそのまま全部飲み干した。身体が水分を欲していたのだろう。喉が乾いている感覚はあまりなかったが、水を飲まずにはいられなかった。塩素の匂いは一杯目よりは気にならなかったが、その代わり口の中が異様に粘ついていることに気が付いた。きっと鼻が詰まって口呼吸をしていたのだろう。風邪の時はいつもそうだ。僕はコップを流しに戻して、歯を磨くために洗面所へと向かった。
「いいか、トシアキ、研ぐ時には刃先を手前側に向けろ。砥石と包丁の角度は45度にして、刃先にそっと中指と薬指を添えるんだ。添えるだけでいい、無理に刃先を砥石に押し付けてはダメだ。峰を割り箸一本ぐらい浮かせて、少しだけ角度をつける。だいたい15度ぐらいだ」
祖父のアトリエには、無数の彫刻刀があった。一般的な切り出し刀、平刀、丸刀、三角刀だけでも、様々な大きさのものがあった。トンカチを使う「のみ」を入れれば、その数は優に50を超えていたように思う。祖父は彫刻刀を使った後、古いTシャツを破った布切れで刃先が錆びないように必ず油を塗っていた。小さな削りかすがこびりついたTシャツのことを、なぜか良く覚えている。
小学生のころ、工作の授業で彫刻刀を使うことになって一度だけ祖父から彫刻刀を借りたことがある。周りの友達の彫刻刀はみんな新品で明るい色の木で出来ていて、中には柄の部分がプラスチックのものを使っている子もいた。その中で僕の彫刻刀は暗い色をした樫の木でできており、刃先も丁寧に研がれ、鋭く光を反射していた。お古を使っていることを恥ずかしく思う年頃ではあったが、当時の僕はその深く年季の入った彫刻刀がいやに誇らしかったのを覚えている。そして実際、切れ味は抜群だった。小学生がほとんど力を入れずとも、目の前の木が面白いようにスルスルと削れていった。
しかし、僕はその彫刻刀の刃先を欠けさせてしまった。木材を削り終わる時に油断して変な方向に力を入れてしまったのだろう。パキンという小さな破裂音がしたので刃先を見てみると、丸刀の美しい曲線が半月状にわずかに欠けてしまっていた。元々刃先が薄く欠けやすかったのであろうし、欠けた範囲はごくわずかだったから、祖父の手に掛かればすぐに研ぎ直すことが出来たと思う。しかし、僕は祖父に言い出すことができなった。その彫刻刀を持って帰って、祖父に謝って研ぎ直してもらうことができなった。祖父は寡黙ではあったが、とても優しかった。だからちゃんと彫刻刀を持って帰れば、もちろん注意はされたと思うが、すぐに直してくれただろう。でも、僕はその事実を告白することなく、彫刻刀を使い続けた。
「テンポが大切なんだ。押すときだけ、刃先がしっかり砥石に当たるようにわずかに力を入れる。でも、引く時は絶対力を入れてはいけない。この往復を、だいたい15回ぐらいを目安にやる。刃先、中央、根元の3箇所ぐらいに分けて、同じことを繰り返す。でも片方の刃だけを削っていると、刃が反ってしまってバリというものができる。だから、裏返して同じことまた、繰り返さないといけない。そう、繰り返しばかりだ。でも、その繰り返しが大切なんだ」
一度欠けてしまった彫刻刀は、全体が脆くなってしまうのかもしれない。僕はその欠けたまま丸刀を授業で使い続けた。その結果他にも何箇所か欠けてしまい、最後の方には最初の美しい曲線は見る影も無く、刃先はガタガタになってしまっていた。僕はもう、絶対にこの彫刻刀を祖父に見せるわけにはいかなった。だから、祖父には彫刻刀を返さなかった。かと言って、捨てることも出来なかった。ランドセルの奥底に隠して家に持って帰り、机の奥に隠した。祖父には何回か「彫刻刀は使い終わったか?」と聞かれたが、その度にもうすぐ使い終わるから、終わったら返すという旨の空返事を毎回返していた。
急に水を大量に飲んで体温が下がったのだろうか。それとも、洗面所の気温が低いだけなのだろうか。また身体中に寒気が戻ってきた。心なしか、額も火照っている。洗面所の蛍光灯は切れかかっており、点滅を繰り返している。
「最後は、仕上げだ。仕上げには、薄い色の方を使う。目が細かい。触ってみればわかる。ここでも、さっきの繰り返しだ。45度の角度で、15度だけ浮かせて、手は添えるだけで、引く時は力を抜く。刃先、真ん中、根元をそれぞれ15回ずつ。それを裏面でも繰り返す。リズムが大切なんだ。トシアキ、繰り返しなんだよ」
彫刻刀はどこかに行ってしまった。数年経って机の奥から、赤錆びだらけになった丸刀を見つけた記憶がある。その後、もう一度机の奥に隠したのか、捨ててしまったのかも覚えていない。僕は、実際には、祖父から包丁の研ぎ方を習ったことがない。ずっとずっと、習おうと思っていた。祖父が死ぬ前に、刃物の専門家の技術をちゃんと受け継ぎたいと思っていた。でもその度に彫刻刀のことを思い出して、祖父に教えて欲しいと言い出すことが出来なかった。そうしている間に、祖父はアルツハイマー病を発症し、施設に入所し、そこで死んだ。最後は同じ話ばかりしていて、自分が彫刻家であったことも覚えていなかった。
僕は歯ブラシをとって口の中に突っ込み、壁にもたれながら鏡を見た。髪は脂ぎっており、目は腫れぼったい。顔全体はむくんでおり、口からは歯磨き粉が溢れて泡を吹いているようだった。小学生の頃の面影は、そこにはない。祖父が死んだ時、僕は自分で掘った彫刻を棺の中に入れた。彫刻刀は、通販で安物のプラスチックの柄のものを買った。切れ味はすぐに悪くなり、何度も手を切りそうになった。刃物の切れ味は、自分を守るためにも大切なんだということに気づいた。何か具体的な絵を掘ったわけではない。円柱の木材を削って、木の幹のようにも、川の流れにも見えるものを掘った。その彫刻は、祖父と一緒に灰になってしまった。
でも、夢の中の祖父は丁寧に僕に刃物の研ぎ方を教えてくれた。
体調が回復したら、久しぶりに彫刻でもやってみようかと思う。砥石を買って、包丁を研いでみるのもいいかもしれない。その前に、食器で溢れた流し台を綺麗にしなくてはならない。救急車の音が、遠くの方で聞こえている。