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雨降りの経路
「じゃあ、内堀通りを通って、そのまま読売新聞の横を通っていくルートでいいね?」
折り畳み傘のボタンを留めながら、「知らないんで、早ければそれでいいです」と私は短く答えた。タクシーの運転手は何も言わずに「賃走」と書かれたボタンを推し、メーターを起動させた。少し棘がある言い方になってしまったかもしれないが、別にそれでいい。前の方の信号が赤信号なのか、タクシーは走り出さない。実際、私は苛立ちを感じていた。なぜタクシー運転手は、こちらも通りの名前に詳しい前提で会話を成立させようとするのだろうか?環七と環八は名前は知っていてもどっちがどっちかわからなくなるし、内堀通りと外堀通りみたいに丁寧に位置関係が判断できる名前になっていてもどっちを通ればいいのかなんて知らない。ましてや、読売本社の場所なんてわかるわけもない。ただでさえ、東京駅周辺のビルは全部一緒に見えるのに。
東京には、雨が降っていた。
久しぶりの雨だった。5月になってようやく気温が安定してきたのに、今日はまた3月に逆戻りしたように肌寒い。しまったばかりのトレンチコートをウォークインクローゼットの奥から見つけ出すまで、貴重な朝の5分を使ってしまった。探しものが見つからないとなんであんなにイライラしてしまうのだろう。5月の雨は、数週間後に迫った梅雨の予行練習みたいで嫌いだ。
トシアキさんが倒れたとの知らせを受けたのは、ちょうど家を出てエントランスで折り畳み傘を開こうとしていた時だった。成美からのショートメールには「お父さんが倒れた」という短い文章と、搬送先の病院名だけが記されていた。その文面を見た瞬間、私の中で雨が降り出した。胃や肺に雨が当たって、体温が内側から奪われていく。私は最初、ショートメールを無視して職場に行くつもりだった。恵比寿駅東口の長いエスカレーターの前までは、実際にそうだった。雨の中を歩きながら「自分にはもう関係ない」と同じセリフを頭の中で繰り返し唱えていた。でも、雨足は強くなるばかりだった。上りエスカレーターの1段目に足をかけた瞬間にトシアキさんの顔をくっきりと思い出してしまい、それでもうダメになった。私はすぐに踵を返し、タクシー乗り場まで向かった。振り向きざまにサラリーマンの傘が足に当たって、ストッキングが濡れた。
トシアキさんとは、由佳と六本木のバーで飲んでいるときに出会った。その時もトシアキさんは女性と一緒だった。
(続く)