道端に落ちている答え

最近、書店には「正解」が所狭しと並べられている。

「健康の答え」「投資の正解」「正しい数学」「間違えない家庭菜園」…

投資関連情報や美容をはじめとしたカジュアルなヘルスケア誌はもちろんのこと、正解の波は趣味や学術の分野にまで及んでいる。答えというものは、秋口の落ち葉のようにこんなにも簡単に手に入るものなのかと唖然とする。それと同時に、こんなにも簡単に答えが手に入る状況にも関わらず、世界で誰も正解者が出てきていないということは、どの答えも正解ではない、あるいは正解というものはそもそも存在しないんだということをまざまざと思い知らされる。

かくいう僕も、今やれっきとした正解探求者になってしまった。

世間的には「クリエイティブ」に分類される領域で仕事をしていることもあり、周りの人々は常日頃から「正解はない」ということを口癖のように発しているし、僕自身も自覚はしているつもりだ。ただ、どうしてもどこかに「答え」がある気がしてしまう。もちろん、それが「現状に満足せずによりクオリティを高めるためのストイックな姿勢」として機能するならば、答えを求める行為は創造的なものとなるだろう。しかし、残念ながらそうではない。過去のキャンペーン事例を調べたり、調査データを漁ってみたり、ヒラメのようにSNSを回遊してみたり。ふと飲み物を買った自動販売機の横に500円玉が落ちていることを期待するように、僕は「答え」を探してしまっている。

要は、自分の内側にある蓄積から答えを導くのではなく、自分の外側の実績ある答えを求めてしまっているのだ。もちろん、広告という産業はクライアントと社会との接点を見つけ出すことが重要な役割の1つであるから、自分の内側ではなく社会に目を向けることは大切である。しかし、社会を見つめる時には、自分なりの「視点」を持たなければ意味がない。本屋やネットを始めとしたいかなる媒体でも、誰かによって言語化されている時点でその人の視点が入っており、つまりその視点はすでに新鮮さに欠ける。道端に落ちているバナナを拾ってきたとしても、それはもう食べられない。

そんなことはわかっているはずなのに。
いつから、こうなってしまったのだろう。

昔は、こうではなかった。その感覚は確かにある。おそらく、大学2,3年生までは答えなど全く探していなかったと思う。他人がどんなテレビドラマをみていようと興味がなかったし、自分が作った曲はそれがどんなに音痴だったとしてもそれでよかった。「正解がある」という概念自体、持ち合わせていなかったような気がする。

なんとなく自分が変わったと思うのは、大学で研究を本格的に初めてからだ。自分は理系だったので、大学4年生の時から研究室に配属され、あるテーマの元に研究を始める。恥ずかしながらそれまでは大学の授業なんてほどんど受けていなかったから、逆に研究室に配属されてから「理系の世界」の面白さに気付かされた。一般的な理系のイメージの通り、夜な夜な実験を行い、様々な方程式やソフトウェアを用いて解析を行った。結果として、学部を卒業した後修士課程まで進み、さらに博士課程まで進学した。合計9年間大学に在籍し、その内の6年間を研究して過ごしたことになる。

理系の研究の醍醐味の1つは、やはり自分の主観とは異なる圧倒的な「客観」の世界を味わえることであろう。もちろん、実験結果をどう読み解くかや、論文としてまとめる時にはどういう文脈で自身の研究を位置づけるかなど、自分の主体や意思が介在する余地は多く存在する。しかし、どのような現象と向き合うにしても、客観的な事実を収集したり、過去の偉人たちが導き出した理論や数学的な方程式を用いたり、と主観が入り込む余地は(意図的に)限りなく排除される。理学系の研究は、ある種「答え」を導き出すことを求められる学問であり、その「答え」は自分の内側ではなく、自然の中に「落ちている」という前提に立った営みなのである。

こうした研究生活を続けるうちに、いつしか僕は自分の外側に答えを求める癖が付いてきてしまった。僕自身は研究生活を満喫することができたし、客観的なものの見方を身につけられたのは大きな武器となっている。逆に主観的なものの見方しかできないのは、それはそれで拠り所がないから泥舟に乗っているようで大変なのだろうとは思う。しかし、この「客観性」というものは場合によっては強力な足枷となるし、気を抜けば思考を停止するための言い訳として機能してしまう。それが、僕の現状なのかもしれない。

でも、これは「理系だから」という問題でもないのだろう。

人は年を重ねるごとに少なからず自分の意思ではどうにもならない現象にぶつかる。自分の内部から導き出した答えが、どうしても通用しない局面に直面する。そうして初めて、自分の外側に目を向け、自分の内側にはない答えを探し始めるようになる。それは、間違ったことではない。

それは、成長だ。

結局、主観性と客観性のせめぎ合いなのだ。いつもそうなのだ。そんなことはわかっている。かさぶたを作りながら必死に自分と社会を擦り合わせ、その接点から答えを導き出していく。自分の外側に変重してしまうとそれは思考停止に繋がり、自分の内側に変重してしまうと独りよがりになってしまう。そんなことは、わかっている。

でも現状の僕は、外側に答えを求めすぎている。それは客観性の獲得ではなく、単なる思考停止なのだ。

そんな現状を変えたくて、こうして日記を書き出したりしてみた。
こうした取り留めのない垂れ流しが、少しでも自分の軸足を内側に引き戻すためのチューニングとして機能してくれることを祈る。


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