ゾーンと憑依
今、僕の目にはテレビが写っている。テレビには乃木坂46が写っていて、芸人と一緒に大きなステージで踊りを踊っている。おそらく、NHKホールだろう。芸人は蛍光色のベストを来ていて、乃木坂46のメンバーはフリルがついたゴシック調の黒いユニフォームを着ている。長い髪はジャンプの度に大きく左右に揺れている。激しいダンスにも関わらず、笑顔が途切れることはない。それは、芸人も同じだ。
なんとなく、文章を書きはじめてみた。何かを始める時には必ずと言っていいほどそのきっかけを問われるが、そのようなものはない。強いて言えば、コロナウィルスの影響なのだろう。在宅勤務になって暇になったかと言えばそうでもないのだが、時間設計が自由になったことは確かだ。朝の通勤時間と出社時間が明確でなくなったので、別に何時に起きても誰にも文句を言われない。だから、夜更かしをするようになった。
高校生の時は、狂ったように文章を書いていた。それこそ毎日mixiの日記を更新することを自らに課し、それを二年間続けていた。記憶は定かではないが、年間340本ぐらいは更新していたように思う。それはつまり、ほぼ毎日更新していたことになる。
明確に、あの当時の勢いを僕は失ってしまった。それを「勢い」と形容するのが正しいのかはわからない。その当時の僕は自分に勢いがあると思っていたわけではないし、勢いを出したいと願っていたわけでもなかった。ただ、何かを書かざるを得なかったのだ。書かない、という選択肢がなかった。なぜ山に登るのかを問われた登山家が、「そこに山があるからだ」と答える以外にないのと同じなのだろう。無意識に横隔膜を動かすことで大気を吸入し、酸素を取り込んで、老廃物質として二酸化炭素を吐き出す呼吸と等しい。それは、意識の外部から自らの行動を規定されるという点で、憑依状態とも言えるのかもしれない。その感覚が、とても懐かしい。
「ゾーン」という言葉を思い出した。スポーツの分野で最近よく聞く言葉だ。僕の認識としては、「極限の集中状態を発揮することによって、対象(の変化)を知覚するために必要なセンサー感度が上昇し、その結果として集中対象以外の情報がシャットダウンされ、時間の流れが遅く感じられる状態」と言った感じだろうか。この「ゾーンに入っている」と呼ばれる状態と、僕が高校生の時にひたすら日記を書き続けていた憑依状態は、同じなのだろうか。感覚的には、ゾーンという言葉はごく短時間な現象を指しているのに対し、2年間日記を書き続けるという行為は長期的なので、どうもタイムスケール的に一致していないように感じる。いずれの言葉も自らの意志を超えた領域にアクセスしている感覚はあるが、ゾーンはまだ自分に主導権があるのに対し、憑依は行為をコントロールできない点でも違う。
今でも、ゾーンには入れることがある。深夜に作業をしていたり、こうやって文章を書いている時にも、ちょうど川の水面から頭を出すように、ふと自分だけが時間の流れからぽっと頭1つ浮き出してしまったような感覚に陥ることがある。そして自分が長らく呼吸を忘れていたことに気づき、慌てて息を吸う。しかし、憑依状態になることはもうできない。支離が滅裂した文章を毎日更新することも、キーがイントロとアウトロで違う無茶苦茶な歌を人まで歌うことも、難しくなってしまった。全て、アンダー・コントロールなのだ。仕事も、プライベートも、自らの意志をきちんと反映できているし、そこから大きく外れて動き出すこともない。
それが、つまらない。
それは他人に依存したいとか、現状を投げ出したいとか、そういうことではない。好きなことをやるとか、そういうのともちょっと違う。ただ、「無意識」を謳歌したいのだ。論理領域から一歩外れてしまった、何もない世界を。内海で海水浴をしてしまったら、いつの間にか外海に流されてしまった子供のように、漂っていたいのだ。
テレビでは、コマーシャルが流れている。白いワンピースを着た女性が笑っている。乃木坂46の番組は終わってしまったようだ。そういえば、あの番組はどうやら乃木坂46の番組ではなかったらしい。テロップに「吉本坂」と書かれていたような気がする。それは大きな違いなのだろうが、僕にとってはどうでもいいことだ。
こうして、久しぶりに文章を書いている。テーマも構成も、何も決めないで書き始めた。誰かに向けて書いているわけでもない。
ひさしぶりに、どこかを漂っているような感覚を味わえた気がする。
ありがとう。