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華奢で少女のような

(15年前に書いたものが出てきたので、整理がてら掲載していこうと思います)

中城ふみ子を実際に知る人は、「小柄な華奢で少女のような人であった」彼女のことをそのように話す
黒髪豊かな肉感的な女性と、世間はイメージしているが
本当は、夢見る少女の眼差しを持ちつづけたひとであったそうである
確かに写真のふみ子は、小説家の田辺聖子の若い頃に雰囲気が似ている

母を軸に子の驅けめぐる原の晝木の芽は近き林より匂ふ  中城ふみ子

帯広市の中心部の緑地帯、緑ヶ丘公園の歌碑にこの歌が刻まれている

ふみ子を知る人は、この歌を代表歌として引く。

奔放で小悪魔的だった女性、伝説となってしまったそのイメージと、実際ふみ子と交流のあった人の彼女とも思い出とは、距離がある

渡辺淳一の「冬の花火」


この物語によって、出来上がってしまったイメージが大きいのだろう
小説の主人公が、一人歩きをしてしまったのだ
歌と評論によりその人となりを知った私は、流言しているものとは違ったふみ子像が出来上がったのだった

取上げた歌であるが
五月、初夏と呼ばれる季節であろうか。「木の芽が匂う」季節である
帯広市のその公園周辺を見知っているので、情景が目に浮かぶのだ

帯広市のある十勝地方の夏は、空がどこまでも高く、大気に湿気が無い、それはそれは美しい季節である
気温はとても高く暑いが、木陰に入ると涼しいのだ
冬は雪も多く凍てつく。それでも冬の十勝晴れは、北海道でも有名である
そのような寒暖のはっきりした気候の中で生活をしている、母子。
父を無くした子と母が、木の芽匂う林の中で遊んでいる。
子は母を中心軸として、駆け回っている
明るい光に満ちた情景である。
木々の葉は、木漏れ日を母子に作ってくれているであろう。

少女のような母親と、幼子たちの歓声が聞こえてくるのだ
この瞬間、作者は幸福であった・・・私はそ考える
誇り高きふみ子のことを思うと

縋りくるどの手も未だ小さくて母は切なしつくしの野道
悲しみの結実(みのり)の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ
陽にあそぶわが子と花の球根と同じほどなる悲しみ誘ふ

夫に裏切られ、出奔された妻であると同時に、ふみ子は母親でもあったのだ。


ふみ子は夫の生地四国に赴いたが、馴染めず北海道へと戻って来たとの記録もある
夫が薬物の常習者であるとのような印象を与える歌もあるが、事実ではないとの証言もあるようだ
現実とは、事実とは、真実とは何であろう

100%事実と異なることで、虚構であると断言できるのであろうか
中城ふみ子は、できることならば遠ざけ、触れたくはないテーマであった
これから幾度となく、ふみ子の歌を語ることとなるのであろう


※昔々に書いたものなので、感想等へのお返事は出来ないかもしれません
悪しからず

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