日本が漢文を通して東アジアに与えた影響

貧乏性なもので、書いたものはオープンにしないと「もったいない」という気がしてしょうがない。逆に、オープンにしない文章には、書く力が入らない(学生や院生のときのレポートがそうだった。だから成績が良くなかった、のだと今更自分をなぐさめる……)。

 日本が漢文を通して東アジアに与えた影響についても、3つあげる。
 まず、影響というよりも文化的貢献について。朝鮮語の研究において、日本の古代の文献が役に立っている。というのは、古代の朝鮮民族は自国語の記録には熱心ではなかったためか、古代朝鮮語の単語は1145年の『三国史記』、1270年代後半から1280年代に成立した『三国遺事』などの歴史書に書かれている固有名詞から、にわずかに推定されるのみである。一方、日本の『古事記』『日本書紀』にも古代朝鮮の固有名詞が断片的ながら記されてあり、日本の奈良時代の文献が、隣国の言語史の研究の一助になっているということは、とても幸いなことだと思う。

 また、朝鮮側も日本の漢文レベルの向上に力を添えてきた。朝鮮通信使(1607年〜1811年)である。朝鮮通信使は、日本の文人と漢詩の応酬を繰り広げた。当初は日本側のレベルが低く、しかし国威をかけた文化の切磋琢磨に日本の漢文レベルが急速に向上し、朝鮮側もレベルの高い文人たちを朝鮮通信使として送ってきた。ときとして激しい論争にもなったが、互いに尊敬しあい、たとえ政治的に対立してようが、文化では友好を貫いてきたことは、現代の日韓両国民の誇りであり、模範としたいところである。

 ふたつめは、江戸時代における漢籍出版のブームが、朝鮮にも中国(清朝)にも影響を与えた。『懲毖録』は豊臣秀吉の朝鮮出兵のときの朝鮮の政治家である柳成龍の著作で、貝原益軒による訓点を付けた日本版が出版され、16世紀末朝鮮出兵当時の朝鮮の対日外交の詳細を読めたり、逆に日本の文化人による漢籍が朝鮮でも読むことができ、日本の文化的な様子を朝鮮でも知ることができた。

 また、中国に関しては、国内で刊行が禁止されていた史書も日本では出版されていた。たとえば、明朝末期に中国を支配しようとしていた女真族(満州族)の清軍が、漢民族を虐殺した様子を記した『揚州十日記』や『嘉定屠城紀略』は、清国では禁書であったが、日本では出版され、広く読まれていた。この2冊を、清朝末期に日本に来て学んでいた留学生たちが読み、書き写し、中国に送っていた。これがのちに、1840年のアヘン戦争での敗北、1856年のアロー号事件によって清朝の衰退が明らかになり、「滅満興漢」のスローガンとなって、満州族の支配から脱し、漢民族としての再興を促すきっかけになった。

 最後に、日本漢語と中国との関係をあげる。長年漢文を使いこなしてきた日本は、「和製漢語」「新漢語」「日本漢語」を生み出した。中でも「進化」「経済」「自由」「権利」「民主主義」など、近代ヨーロッパが作り出し育んだ新しい概念を、日本語に翻訳した「新漢語」は、中国や朝鮮にも輸出され、文化的にアップデートをすることが可能となった。

 現代中国では、「高級語彙」の半数以上が、日本漢語である。本講座のテキスト『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』(加藤徹 光文社新書 2006年)によると、
「例えば、中国語で『中華人民共和国憲法規定的権利和義務』(中華人民共和国憲法が定める権利と義務)というとき、純粋な中国漢語は『中華』『規定』『的(の)』『和(と)』だけで、『人民』も『共和国』も『憲法』も『権利』も『義務』も、日本漢語からの借用語である」
ということだ。

 漢字・漢文のおかげで日本文化が進歩し、それがいま中国の進化の一助となっていることは、わたしたち先人が成し遂げた誇りであると同時に、これもまた先人たちが努力してきた、政治的対立を乗り越えて、文化的な友好関係を築いてきたように、いまを生きるわたしたちもそうした文脈を受け継ぎ、後進につないでいかなければならないと改めて思う。