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人間の本質は「関係性」である

島根県の隠岐の島の、そのまた先にある島に海士町はある。
「あまちょう」と読む。

隠岐の島には飛行機でいけるけれども、
海士町には船でしかいけない。

船でしかいけない島に人が住んでいる、
ってすごいことだな〜、と思う。
東京にも離島はたくさんあって、
飛行機でもいけるところと、
やっぱり船でしかいけない島があって、
飛行機でいけるといっても、
飛行機がない時代は船でしかいけないから、
そもそもなんで人は島に住むのか、
って考えたら、
そもそも人は移動しながら暮らしてきた、
という歴史にぶち当たる。

海士町に着いて船から降りると、
「ないものはない」
というスローガンがたくさん目につく。
「ないものはない」というポスターが貼ってあるし、
「ないものはない」というチラシが置いてあるし、
「ないものはない」というTシャツが売ってある。

後鳥羽上皇が1221年の承久の乱に失敗して、
島流しにされたのがこの島で、
なんでこの島だったのかというと、
この島は豊かな島だったから。

地下水が湧いているから、耕作ができる。
田んぼで米がとれるし、畑で野菜をつくることができる。
水があるってことは川があるってことで、
川があるってことは、海と川との接点で魚がたくさん獲れる。
海のものと山のものがそろってて、水に困らない。
だから生活そのものは豊かなんだけど、
船がないと島から出られない。
ということで、やんごとなき方の流刑の地としては最適なのである。

時を戻そう。

いま「ないものはない」なのは、
人口2200人程度でスーパーもコンビニもなく、
公共交通機関のバスはまばらにしか走ってなく、
つまり不便といえば不便だけど、それに文句いったって、
「ないものはない」んだからしょうがないでしょ、ってこと。

と、もうひとつは
「なんでもある」
の「ないものはない」。
海のものと山のものがそろってて、
隠岐牛というブランド牛まで育ててて、
電気もガスも水道も、テレビも映るしインターネットもつながる。
どこに不満があるんだ、という「ないものはない」。

考えてみたら、日本中「ないものはない」ところばっかり。
なので、どこにいっても暮らすことはできる。
テレワークの時代になったこともあって、
ますます「できないことはない」。

けど、じゃあ地方に一人とか一家族で移住して、
豊かに暮らせるかというと、そうはならない。
自然環境を活かせば、ないものはない、けど、
人間関係を活かせないと、どうにもならないことだらけ、
というのが地方での暮らしの基本、のようだ。

海士町と釜石で、そのことを考える。
(つづく……たぶん)