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【止まらない!】ベーマガの思い出4選

30年以上プログラミングをしている、ムンペイです。
サムライアプスというサークル活動もしています。

先日2024年5月18日に、ALL ABOUT マイコンBASICマガジンⅢというトークイベントに行ってきました。観客には30年~40年前にベーマガを読んで育った当時子供だった人たちが1000人以上も集まり、全員が同じような思い出を共有しているというすごいイベントでした。

ベーマガは、正式には「マイコンBASIC Magazine」と言い、1982年に電波新聞社から創刊されました。まだインターネットがなく今のようにコミュニティ形成が簡単ではなかった時代に、パソコンと言わずマイコンと呼ばれていたそれでプログラミングで遊ぶ人々をつなぐ貴重な雑誌でした。

今よりもっと様々な機種があった時代に、BASICという言語で書かれたプログラムを読者が投稿し、採用されるとそれが掲載されるというものでした。(そして掲載料ももらえる。)

奇しくも私が社会人となった2003年にベーマガは休刊となりますが、今はIchigoJAMのプログラムを載せる雑誌として復活していたりします。
ベーマガイベントについては電波新聞社の平山社長らも書かれているのでぜひご覧ください。

そんなわけで興奮冷めやらぬ気持ちのまま、私のベーマガへの思い出を4つご紹介します。当時の熱い気持ちやプログラミングの楽しさを感じ取っていただければと思います。


1.(文字通り)とにかく打ち込んだ

私が使っていたのは、自営業で新しもの好きでもあった父がCADを使うために買ってきたNECのPC-9801 EX2 という当時の最新機種でした。この機種には普及し始めていた3.5インチFDDが付いていましたが、HDDがないので今のように電源を入れてもOSが起動したりはしません。その代わりN88-BASICというプログラミング環境が起動しました。ベーマガ読者はこの環境で遊んでいたわけです。

そして、私もベーマガを定期購読していて、ほぼ毎月PC-9801用のプログラムを打ち込んでいました。いえ、面白くなさそうなときはスキップしたこともあります。

とにかく、文字通り打ち込みました。
学校から帰ると、そのままパソコンが置いてある部屋に直行し、そのまま深夜まで打ち込んでいました。
土曜も日曜もパソコンを触っていました。
(今思えば、父も使いたかっただろうに、譲ってくれていたに違いない・・・)

ベーマガのプログラムを打ち込んでいる当時は、プログラムの文法はわかりますが、設計などのドキュメントはあまりなかったですしまだ小中学生くらいなのでバリバリ開発者というほどではなかったのですが(※1)、プログラミング大好き少年は完成しました。この経験が今の私を作ったと思います。

※1:ベーマガイベントでは、中学生や高校生がすごいプログラムを投稿してきて、そのまま買い取った話なども語られていました・・・。すごい。

2.投稿した

ベーマガは投稿雑誌です。数年間にわたりベーマガのプログラムを打ち込んでいた私は、ついに自分でもプログラムを作って投稿してみようと思いました。

そして、投稿しました。確か2回したと思います。
が、まったく反応はなかったですね。。。

掲載されないまでも、惜しかった人はたしか「明日のスタープログラマー」という小さいエリアに名前が出るのですが、そこにも載りませんでしたです。。。

私が投稿したのは、ゲームのキャラクタを作るエディタで、32x32のサイズのドット絵をかいて、確か16進数か何かにエンコードして出力するというものだったと思います。当時掲載されていたプログラムはもちろんデータも入力する必要があり、16進数にエンコードされた形式がよく使われていたので、そういう人に向けたものでした。
が、今思えば、ニッチすぎるし、全然面白くないし・・・ということで選ばれないのも当然ですね。

ベーマガイベントでも、選者だったライターの一人が「ゲームとして面白いこと」を基準に挙げていらっしゃったので、だよなー、と思った次第です。

3.移植した

ベーマガ時代が数年あって、その後Windows(3.1)が登場してからは、私もプログラミング環境をWindows上に移しました。使う言語もBASICではなく、C++に変わりました。

そうして私もベーマガから卒業となったのですが、Windows上でも引き続きゲームプログラミングをしていました。いろいろネタを小出しにしていたら、とある方から声を掛けてもらい、ネット上だけの知り合いでゲームサークルを結成することになりました。

リーダーの計画があったのですが、メンバーの方向性も整わず、なかなか開発は進みませんでした。停滞した雰囲気を何とかせねばと、小さいものを何か完成させてみようと、その昔ベーマガに掲載されたゲームを思い出し、アレンジを加えてWindows版として作成しました。
ミニゲームでしたが、ちょっとしたストーリー性もあり、まずまず面白く遊べました。

これをきっかけに、サークルはメンバーがそれぞれミニゲームを次々作る雰囲気になっていきました。

4.F-ZEROにハマった

ベーマガでなんといっても個人的に思い出深いのは、F-ZEROにハマったことです。ベーマガは、プログラミングと、もう一つゲームを柱としていました。

今でこそゲームは誰もが遊ぶものですが、当時はまだファミコン発売前で、ゲームというとゲームセンターや喫茶店のものでした。不良の遊び・・・という見られ方をすることもありましたよね(※2)。

※2:ベーマガイベントでも、ゼビウスカンストを日本で初めて?果たした大堀氏も語っていました(イベントのリンクではないですが記事があります)。

ベーマガの編集長であった大橋さんも、当初ゲームには興味がなかったそうですが、子供たちが熱くなっているのを見て、これは新しい文化が作られていると感じたそうです。

ということでゲームも熱かったベーマガの、ある年の年始の企画で、発売したばかりのスーパーファミコンのローンチタイトルの1つであった「F-ZERO」の特集が組まれていました。その名も「F-ZERO 1分59秒台への道」。F-ZEROのタイムアタックにハマった編集部の面々が、互いのライバル心を燃やしながら新しいテクニックを生み出し、とうとう1分59秒台を達成するという、小説仕立ての特集でした。

私はこれが大変衝撃を受けて、自分でもやりたいと思いました。
当時スーパーファミコンは持っていなかったのですが、まずF-ZEROのカセットを買いに行きました。
すると、優しい同級生の友人が、なぜかスーパーファミコン本体を貸してくれるというのでお言葉に甘えて借りることに。これも夜中までずっとハマって腕を磨きました。

同企画はその後「F-ZERO 1分58秒台への道」として連載に変わり、読者投稿によるタイムアタックランキングに変わりました。
私も練習してはその月のトップを超えた!ということもありましたが、次の月には塗り替えられてて・・・という感じでしたが、まぁまぁトップレベルの記録も持ちつつ、大変興奮して毎月を楽しみにしていました。

今回のイベントで、そのときの企画がリライトされた書籍を購入できたのがとても嬉しいです。(しかも、著者の山下章さんにサインもらいました!)

次世代に伝えたい

BASICを掲載するベーマガですが、掲載プログラムが高度になるにつれ速度を求めてマシン語で書かれたものが多くなり、BASICはマシン語をロードするためだけに使われる・・・という状況が多発するようになりました。入力も大変で、数値の羅列なので間違い探しもとても難しい・・チェックサムという言葉はここで覚えました。

さて、イベントの締めで大橋編集長もおっしゃっていたことですが、ベーマガで育った私たちは、次の世代に技術はもちろんこのような熱い気持ちも伝えていかなければなりません。全くそのとおりだと思います。
そんなわけで、一つ取り組んでいることがあります。もう少し出来上がってきたらご紹介したいと思っていますが、その話はまたの機会に・・・。

これにて御免!

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