「絶対」はない前提で生きる
はじめに
むぎの部屋へようこそ。
ここでは私自身の過去、
日々の生活から得た学びを
お届けしています。
何か一つでも
持って帰ってもらえたら嬉しいです。
「絶対」
という言葉を言われるたび思うこと。
んなわけあるか。
それでもなぜか人は「絶対」を
信じたくなってしまう。
なかなか面白いなと思ったので
今日は「絶対」という言葉について
考えてみました。
「絶対」と言ってくる人は基本信用ならない
「絶対儲かる」
「絶対大丈夫」
信用してはいけない言葉ランキングの
トップクラスに常駐すると思っている
言葉たちです。
他にも
「絶対的」権力
など他の追随を許さない
圧倒的な位置付けとしても
使われることがありますよね。
これだけ極端だとわかりやすいですが、
油断すると無意識にこの
「絶対」という言葉を使ってしまっている
ことってありませんか?
それ、本当に「絶対」なんですかね?
よくあるドラマの茶番で
「絶対に幸せにする」
とか言って
なんだかんだ叶わず
なんてことがあるように、
「絶対」に対する担保って
そうそうないことが多い気がします。
だから「絶対」という言葉で
説得を試みる相手には
その「絶対」の根拠を問い詰めますよね。
それくらい安易に
言えたもんではない言葉だと
勝手に思っています。
ある時気がついたのが、
「絶対」と口にすることは
「他の可能性に対する思考放棄」
とも取れるのではないか
ということです。
あらゆる可能性に対して
本当に考え抜いていたら
「絶対」という言葉は
そう簡単には出てこないんじゃ
ないかなと思っています。
だから「絶対」という言葉に対しては
身構えてしまうのかなと
思っています。
不確実性があるからこそ面白い
じゃあ「絶対」と言えるものはないのか。
探せばいろいろあるとは
思いますが、
1番私たちにとって身近であり、
現時点で避けようがない
絶対的事実があります。
それは「死」です。
こればかりは現時点では
どうしようもありません。
しかし数多の研究者達が長年戦い、
少しでもこの「死」という
「絶対」に立ち向かっている
のも事実です。
今はどうしようもない
「絶対」が
いつかは「絶対」では
なくなるかもしれない。
今の所「死」を克服している
わけではありませんが、
平均寿命の伸びからもわかるように
一昔前と比べて「死」から
多少遠ざかる術は身についてきている
のではないでしょうか。
こういう事実があるからこそ、
安易に「絶対」という言葉で
片付けたくない、
そこで思考を止めたくない
という思いが強いのだと
思います。
仮にどうしようもない
「絶対」という事実があったとして、
私は多分それに対しては
興味を抱かなくなるんじゃないかなと
思います。
「絶対」としてしまった以上
それ以上に思考の余地がない。
要はつまらないんですよね。
噛み続けて味のなくなった
ガムと一緒です。
でも一見味のなくなったガムでも
恐る恐る噛んでみたら
思ったより味がする
なんてこともあるかもしれません。
ちょっと汚い例えだったかもしれませんが
お許しください。
だから「絶対」なんてものは
そうそうない。
まだまだ考える余地があるかもしれない
という意識を持って日々を過ごすと、
もっと面白いことがあるかもしれませんね。
おわりに
書いている途中で思い出したのですが、
今回の話って
「クリティカルシンキング」
と言われるそれに近いのかなと思います。
とされるように、
ある事実に対して批判的な思考をすることで
「当たり前を疑う」
というような思考アプローチのことです。
度がすぎると優柔不断とも取れる
かもしれませんが、
当たり前として提示された
事実に対して
何も考えず全て受け入れるのではなく、
一歩立ち止まって
本当にこれでいいのか?
という問いを常に投げかける
習慣はあって損はないんじゃないかなと
思います。
だから自分は
「〜であるべき」
とかいう断定的な意見が
心底嫌いなんだな
という自己分析にもなって
いい学びになりました。
あなたの身の回りに
「絶対」として転がっている
あらゆることには
まだ考える余地があるかも
しれませんよ?
最後までご覧いただき
ありがとうございました。
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https://note.com/munimunimugi/n/n8897afbb01ce
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