どの感情がどの望みがどの感覚が私のものか。#お悩み相談No.46
1. 質問内容
■お悩み
母親・父親・親子関係
■ご相談・ご質問内容
こんにちは。
質問は、どの感情がどの望みがどの感覚が私のものかについてです。
以前、親のことを話すと、子供を愛さない親はいない、生んでくれて育ててもらったんだから感謝して当たり前、どこかの国の実験で愛情をもらえない赤ちゃんは生きることが出来ないってある、あなたは生きているのだから愛されていたのよ、文句を言っているあなたがおかしい等を言われました。私のこの感覚がおかしいのかな、でもそれを信じなくて、何を拠り所にして生きればいいのって思ったことがあります。
でも、小さい頃の権力者(親、先生、世間等)の刷り込みを信じて生きている私がいて、「○○したい、これが好き、私はこう思う」が、あれ、これは私のもの?って疑問に思うことがこの頃たくさん出てきて戸惑っています。
今まで生きてきた世界はまぼろしをみてたの?って思うくらいで、今????って感じで、何を信じたらいいんでしょうか?もう刷り込みが私の血や肉の一部になっていて、あまりにも当たり前になっていて、苦しいままです。自信が持てないのです。相変わらず人も自分も信じられません。決めることが出来ません。これは自分が責任を取りたくないだけ、失敗したくないだけ、傷つきたくないだけなのでしょうか。
■性別
女性
■年代
55-59才
■ご感想
「不幸自慢してくる人は、自分の不幸を認めてない」って名言です。人に同情を引くためにやってはいるんだろうけど、おそらく、そう(不幸)だったんだろうなって思ってますけど、実感がないのです。「私は、まだ、まし」って思いたいのです。私です。
2. 回答
こんばんは。むねをです。
「どの感情がどの望みがどの感覚が私のものか」
この質問がもし、哲学的であれ科学的であれ、この人の「好奇心」から出てくる問いなのであれば、人生を掛けて考える価値があるくらい素敵なテーマ、だと思うのです。ぜひ本屋さんにいって、この問いをめぐる壮大な旅へ出かけてみてはいかがでしょうか。本当に面白いと思いますよ。
ただきっとこの人の心が求めているのは知的好奇心を満たしてくれる「情報」や「論理」などではなく、圧倒的に『共感』と『肯定』なのでしょう。
だからどこぞの馬の骨かもわからない、そもそも大学の先行は物理だし、アカデミックに心理学を学んだこともない、社会的にはなんの専門性も認可されてない僕なんかに相談するのです。
ちなみにこの”僕なんか”の”なんか”にはなんの卑下もふくまれていないことだけは付け加えておきます。
と、今回の質問の本質的な要求に対して僕なりの解釈を前置きしたうえで中身に入りますが、僕はいわゆる『共感』と『肯定』は苦手です。正確には「好きじゃない」ので、それは期待しないでください。嫌なら以降読まなくても大丈夫です。
さて、この人の言葉の中に頻出する「信じる」、「拠り所」っていう単語。普段生きていて、僕がほぼ使うことがない言葉です。
なぜなら基本的に、
・「信じる」必要性を感じない
・「拠り所」が欲しいと感じる時点で自分の心は今、不安なんだな、何が不安なんだろう
と、考えるからです。
例えば分かりやすい例で話すと、『神』。
神の存在を信じるか信じないかの議論は僕には意味がないんです。なぜなら、神を信じる必要性を感じないからです。なので、神を信じるべきかどうか。ということを人生で考えることがありません。
すべて同じ話です。簡単です。
「生んで育ててくれた親に感謝するのが当たり前」と”信じたい”時点で、それは「親に感謝する」を信じる必要性がその人の中にあるってだけの話です。
具体的には、「自分が親の子育てを否定することは、自分の人生を否定することになるから、それはできない。」のです。「マジおつかれ」って感じで、その議論は「神の存在」と同じく僕には意味がないです。僕の中に否定すべき親の子育てなど何もないからです。(正確には、清算済みです。)
そういう意味で、僕は「考え方ゴミだな」ってよく使いますが、それは僕にとって意味がない考え方だなって言ってるだけで、笑顔でゴミ収集してる人のことについて何も思いません。ただブツクサ言いながらゴミ収集してたら、「アホですね。」って言ってあげたくなるのが正直なところなのです。だってその人はゴミをゴミだと理解できてないからです。
なので、親に感謝するしないの議論に関して、僕はあなたが間違ってるとかあってるとか言ってあげられません。僕が言ってあげられることは、そもそもが「誰得でもないその議論自体、ゴミじゃないですか?」です。
なぜあなたが何かを信じないといけないのか。
なぜあなたが何かを拠り所にしないといけないのか。
それは単純で、
・母親があなたの気持ちに『共感』も『肯定』もしてくれなかったか、
・もしくは母親が信頼に足る人物ではなかったか、
・もしくはその両方、
です。
あなたの考え方があってるとか間違ってるとかそんなことどうでもいいのです。
ただ「母親が残念だった」だけです。「母親が残念だった」というだけで、あなたはゴミみたいなことを考えてしまうようになっただけの話です。
言っておきますが基本的に大体の人が、「母親が残念だった」というだけでそうなります。ですので、最初のあなたの問いを借りるなら、あなたの感覚はあなた自身のものというより、育ってきた環境がそうさせている部分が大きいです。僕でもあなたみたいな感覚になったと思います。
育ってきた環境が違うだけで今現在自分が持ってしまった感覚について、あれこれ考えても無駄なのでやめてください。ババ抜きで最初にババが入ってたことに関して、「嫌がらせ?」とか考えてもそれは考えがひねくれすぎてるよねってだけの話で、ババ抜きが楽しくなることは一向にないと思った方が良いです。
ではどうするのかというと、まずは「ババ抜きでなぜ最初にババを引いてしまったんだ!」という気持ち。
この”感情”。これを気が済むまで、吐き出すことから始めてください。
自己を否定している人は、実は根本に『感情』の否定をしています。これを皆さんがなじみ深い言葉に置き換えるなら、『我慢』といいます。
我慢が自己否定の始まりなんです。
ありがとうございます。きっとあなたにいいことがあります。