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人生のオワコン期をどう生きるか。【キッザニア型生き方】のススメ
「人生オワコンかぁ〜。」
そんな風に思いながらだらだら生きていたぼくが、だらだらと書いたnoteである。
来るべき人生のオワコン期に備えて
ぼくは自分の人生にオワコン感を感じることがしばしばある。ここ5年間くらいで計25回くらいだろうか、厳密ではないが。
あなたはどうだろう。まだその時が来てないとしても、この記事がそのいつかのための備えになることを願いmacを開いた。
そもそも「オワコン」とはなんだろう。現状まだご健在のWikipedia様に聞いてみる。
『オワコン』とは、主に一般ユーザー又は個人ユーザーに飽きられてしまい、一時は繁栄していたが現在では見捨てられてしまったこと[1]、ブームが去って流行遅れになったこと、および時代に合わなくなった漫画・アニメや商品・サービス[2][3][4]などを意味する日本のインターネットスラング。なお、『おわコン』や『終わコン』と表記される事もある。
オワコンの定義によれば、「あなたの人生はまだ始まってすらいないですよね。」と、そう言われたような気がして、急に左ききのエレンを思い出した。
「わかるよ」
「はじまったら」
「はじまった時にわかるよ」
ぼくには”はじまった時”がわかる日が来るのだろうか。はじまってもいないのにオワコン感を感じている自分がなんだか急に恥ずかしくなった。
でも振り上げた拳をなかなか下ろせないように、書き出したnoteを止めることもなかなか難しいものだ。だからこのまま先へ進む。
人生にオワコン感を感じているのは、ぼくだけではきっとないはずだ。オワコンとは有名人や著名な作品に対して下される評価だけでなく、もっと一般的な感覚として「人生オワコンだと思う」ことがあると思っている。
一般的というのは風呂敷を広げすぎたかもしれない。ある程度自意識が存在する人間であれば、という前置きをつけておくほうがいいかもしれない。
言葉にするとなんかこうしっくりこないが、日常が「頭打ち」とか、「陳腐化」とかそんな感覚だろうか。要するに「もうこれ以上この先に何もない感じがする。」というか。
どこが痒いかわからない時の痒みが辛い様に、なんかこう、モヤモヤっとする感じが心を鈍く痛めつけてくる。そんな感じだ。
『人生のオワコン期』はいつ訪れるのか。個人差はあるにせよ、30代後半から40代後半くらいに感じるものと推測している。そのため古くから存在する「更年期」とも重なるものがあるかもしれない。
当然ながら、更年期には更年期の備えが必要である。
だとしたら必要なのはnoteの無料記事なんかじゃなくテストステロンなんじゃないかという気がしてくるが、それはそれとして、一応続きを読んでもらえると嬉しい。
更年期がホルモン分泌の変化等による一時的なものであるのに対して、オワコン期は自ら脱しようとしない限り卒業することが難しいという、性質の異なるものだ。またオワコン期は更年期以外であっても訪れる可能性がある。従って別々に対応が必要だ。
人類はまだ進化的にオワコン耐性を獲得しておらず、獲得する保証もない。むしろ獲得しないであろうというのが妥当な見解だと思う。基本的にオワコン期は繁殖期の後に訪れることが多く、繁殖のための優位性にオワコン耐性はなんの関係もない。つまりぼくたちはオワコンを生得的な自然治癒力に任せず、NOWな現場でテクニカルに解決していかなければならない。
オワコン期の問題は寿命の延長とともにその期間が長くなることで深刻化している。近所の公園人口の8割が超高齢者という時代を想像してみてほしい。ベンチがいくつあっても足りない。そのうちの7割がおわっちまった人生を嘆く生きたゾンビになったらと思うとゾッとする。
理想は公衆老人の3割が太極拳をやり、残りの5割は円周率の計算、そして残りの2割はChat GPTとのラップバトルに明け暮れる社会だ。遅くはない、ぼくたちも今から備えよう。
人生のオワコン要因
人生のオワコン期はなぜ訪れるのだろうか。
「人間のおわり」を予測したフーコーを一冊も読んでいない分際で、一個人の人生のオワコン期など語って良いのだろうか、と逡巡はしない。
きっとミシェルをはじめとする偉大な方たちの著作は、人生がオワコン期を迎えたときこそ必要なコンテンツになるので、その時のために楽しみに残しておかないといけないのだ。
オワコン期に陥る要因は主に3つあると考えている。
性の問題、仕事の問題、飽きの現象だ。
「レイヤー違くね?」みたいなツッコミはごもっともかもしれないが、気にせずそれぞれを見ていくことにしよう。
実らぬと、知った稲穂の落ち込み様
まず第一に、性的に枯れ始めるというのが大きな要因の一つだろう。この年代になると、ドイツ村あたりで子どもと乗馬体験をしがちだ。同時に自分に跨ってくれる人はもう二度と現れないという現実を馬の蹄で踏み締めるのである。
丘の上に位置し、辺りが殺風景なドイツ村からみる夕日は綺麗だ。そんな朗らかな休日がつまりは幸福なのだと言い聞かせはじめた時にそれは訪れる。
謎の体調不良やメンタルの不安定さ。プロスポーツ選手でもないのに「スランプ」だとか、元オリンピック選手でもないのに「燃え尽き症候群」とか言い始めるのは、「モテたい、ヤリたい」がもう叶わないと悟った日から、まだ少し日が浅いからではないだろうか。
他人事ではなかったぼく自身、藁にも縋る気持ちで書籍を当たった。下記に示す選書の的外れっぷりに、当時の焦りと自らへの恥ずかしみが表れている。
黒川伊保子先生の2冊はなんとセットで購入し奥さんにも渡した。もはや必死である。ぼくの「カンジョウのトリセツ」マガジンのタイトルは、きっと黒川先生の"トリセツ"シリーズがルーツに違いない。
この記事では多くを語らないが、性的な問題を起因とするオワコン期をどう乗り越えるかについては、夫婦生活の持続可能性にも直結するのではないだろうか。ぼく自身はそう思っている。
第二に、仕事の問題がある。個人差はあるが30代後半以降になると、多くの人は成長を感じなくなる。というか成長のための一番のモチベーションであった「モテたい、ヤリたい」が失われ、その後、二番目の原動力であった「金が欲しい」という欲求に対して釣り合うだけのニンジンが無制限には用意されていないことに気づいたとき、人は成長を止める。
ビジネス書を買う頻度が減り、タイトルから慰めの香りがする本に手を伸ばしがちだ。
この記事の論旨をもっと説得力のある形で書いてくれていそうな本なのに、読むこと自体が三日坊主になってしまったぼくは、「いい」といわれたことをそのまま「いい」と受け取ることができる素直な男だ。
「もうこれ以上出世しないんだ」
「もうこれ以上年収上がらないんだ」
と悟った時、つまり今の身の丈から自分がこれ以上はみ出ることはないのだと知った日から、人は背伸びをすることをやめ、その背筋は次第に重力に逆らうことなく湾曲してゆくのだろう。
「実らぬと、知った稲穂の落ち込み様。」
旦那の佇まいと夕食中の姿勢に生気を感じなくなったら、どうかこの詩を読んであげてほしい。自分で自分を笑えなくなっなら、それこそ人生はオワコンである。
いろんなことに飽きてきたのが人生だ
そして、最後にして最大のオワコン要因、それは「飽きる」ということである。
人はコンテンツに飽きるのと同様に、人生で初めての経験をした後、その経験に慣れ、最終的には飽きていく。人生のオワコン期は、このように人生で出会う経験に一通り飽きてしまう頃に訪れると言っても良い。
思えばぼくらの人生は飽きてばかりである。
学生自体に真剣に取り組んでいたスポーツを例に取ろう。40代以降も同じスポーツをやっている人はどのくらいだろう。ぼくの知人で推測する限り、5%には満たないのではないだろうか。
「スポーツには能力差があるから自分の限界が見えた時点で区切りがつき、他の真剣に取り組める何かにエネルギーの向き先を変えているだけだ。だから「飽きた」のとは違う。」そう思うかもしれない。それに「スポーツをするにはある程度時間的、経済的な余裕が必要で、やりたくてもできない人もいる。」とも言えそうだ。
では好きな小説家や歌手はどうだろう。ブックオフに行けば一冊税込110円から小説が買える。駅前の小さなレコード屋さんに電車で行かずとも、インターネットで音楽は手軽に入手できるようになった。
学生時代に読み耽ったあの小説家の最新作は、いまでも楽しみで仕方がないだろうか。あんなにも大好きだった歌手の新譜発売日を気にしなくなってから、どのくらいの月日が流れただろうか。
恋愛ならわかりやすいかもしれない。ある日突然、彼氏の言動全てに心が反応をしていない自分に気づいたことはないだろうか。全てが業務連絡にしか聞こえず、トイレに篭って一時彼の存在意義を”考える人”になったことは、多かれ少なかれ誰しもあるはずだ。
益田ミリ原作「僕の姉ちゃん」で、彼氏と別れた理由を弟から問われた姉ちゃんは言う。
「一緒にいても楽しくないから」
恋愛において「冷める」という現象は関係を終わらせる十分な理由として許されている。それはもしかすると、「飽きる」手前で別れるのが最善のタイミングだからなのかもしれない。
他方、結婚とは下山のようなもので、ピークから始まることを多くの人は知らない。そのため気づいた頃には「冷めた」はとっくに通り越していて、もうすでに「飽きて」しまっている可能性は十分にある。大勢の目の前で神に永遠の愛をわざわざ誓わされる理由は、人間たちの「飽きっぽさ」を見抜いてのことだろう。
今日まで生きてきた中で手放した「大好きなもの」たちは、果たして止むを得ない事情によって、だっただろうか。手放したのは外的要因であって本望じゃなかった、といえるだろうか。
人は自分の人生を「夢が破れた」とか、「恋が破れた」とか、「才能がないと悟った」とか、「大切なものを失った」とか、そういうふうに悲劇的に彩ることを好む。でも実際は、単にいろんなことに飽きてきたのが人生なんじゃないだろうか。
「飽きた」と言いたがらないぼくら
「飽き」という問題は意外と根が深い。第一にぼくらは自分たちのことを「飽きっぽい」人間だと認めたがらないところがある。実際、「飽きっぽいやつ」と思われないように振る舞ったりもする。それが「飽き」の問題を厄介にしている。
第二に、上記の理由から「飽き」は無意識化で隠蔽されることが多く、そのため自分で飽きておいて、飽きたことを認識しにくい世界にぼくらは生きている、という点が挙げられる。すでに飽きてるとは認識しないまま、ある日突然来訪者がドアベルを鳴らすのだ。「オワコン期のお知らせです」と。
「飽き」の問題をもう少し深ぼってみよう。
ぼくたちが「飽きた」と言いたがらない理由
人生は「飽き」の連続であったと述べた。でも言われるまではそんな風に自分の人生を思ったことはないのではないだろうか。
ぼくたちが「飽きた」と言いたがらない理由について、もう少し考えてみよう。
一つは、謎に存在する美意識、「一途さ」のせいであると思われる。「一途さ」が美徳とされる世界では、経験人数が多いだけでヤリマンだのヤリチンだの言われ、経験の豊富さよりも、「一つのことを一生懸命長く続けてきました」と持続性をアピールした方が、就職面接にしろ、婚活にしろ、相手に実際以上の好印象を与えることは確かだろう。
子どもが買ってあげたおもちゃにすぐ飽きた時、「あなたが欲しいと言ったんだから、もっと大切に使いなさい!」と精神論を持ち出してしまうのも、ぼくらの遺伝子にSDGs的なナニカが含まれているからではなく、見方次第ではひどく疑わしい「一途さ」の価値を、過剰に信じ込んでいるからではないだろうか。
もう一つは、「飽き」を感じること自体が喪失を彷彿とさせるからというのがあるかもしれない。これから自分が振る相手を前に、泣き出す男や女が存在する。身勝手だが喪失とは誰にとっても傷であり、少なからず悲しみや痛みを伴うものだ。
飽きることは喪失であり、喪失とは悲しみであるから、できればその日が来ないことを願ってしまう。いつかみんな死ぬことはわかりきっているのに、できれば無期限に後回しにしたいのと同じだ。
こういった女々しい理由で、ぼくたちは飽きてないフリをする。飽きていても、断固として「飽きた」とは言わない。だから昨日と同じ仕事をし、昨日と同じ家に帰り、「今日も幸せだった」と言い聞かせる様に無理やり眠りにつく。
そういう意味で、人生で感じるオワコン感とは、自分が自分についた「飽きてない」という嘘の回数が一定量を越え、もうそれ以上嘘がつけなくなった頃に感じるのかもしれない。
「飽き」への対処がオワコン期のカギとなる
オワコン期の要因として、性や仕事の問題が他者や環境、自分の生理現象という致し方ない事情を含んでいるのに対して、「飽き」というのはどうだろう。これも人間の生理的現象だと言えないこともなさそうだが、むしろ自らの生理現象のみに左右されるのであれば、それはそれで対処のしようがありそうである。
もしかすると、枯れゆく性に抗うことより、より仕事を通して自己実現を図るといったことより、「飽き」への対処はよりEASYにオワコン期を脱出するカギになるのではないだろうか。もっといってしまえば、「死ぬまで飽きなければ、オワコン期なんて訪れない。」のではないだろうか。
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という訳でここからは、「飽き」への対処をメインに取り扱うことで、来るべきオワコン期に備えることにしよう。
何度でもスタートできる自分になるためにできること
いまふたたび人生の代謝を上げよう
「飽き」の問題に対する解決策は、これまでみてきたような飽きたがらないぼくらの精神構造を踏まえて、まずは「飽きてしまったことを認める」というのがその突破口となるのではないだろうか。
喪失しないかわりに引き受けた退屈を終わらせるには、「飽きた」という白旗を堂々と立てることから始めたらいいのである。
別れようと決意した朝の、なんとも言えない清々しさを思い出して欲しい。彼に伝える”別れる理由”は、この際あとから考えたらいい。「捨てる」と決めた人間の身軽さに、未練という重さが敵うことは決してない。
「飽き」を認められる人になるということは、もう最初からその前提で行動できるようになる、ということでもある。こうなると人は息を吹き返す。飽きる前に次を用意しておこうとするため、徐々に人生の代謝がよくなるからだ。
キッザニア型生き方のススメ
次にお勧めしたいのが、【キッザニア型生き方】である。
先日小一の息子くんが、キッザニアに行くらしいという情報を入手した。世の中のありとあらゆるお仕事を疑似体験できるという、めちゃ凄スポットである。
その世界では求人倍率が異常に高いのか、前もって体験したいお仕事を決めて予約する必要があるということらしい。早速息子くんとどのお仕事を体験したいかピックアップすることにした。
その際の息子くんの選択基準がとても面白かった。
最終的に、食える。
何かしら、食える。
記念品的なもの、ではなく、やはり食える。
お仕事選びの優先順位1位は、「食えるかどうか。」であった。
いやいや、ホモサピの影響を受けすぎじゃないだろうか。
漢字もロクに分からないのに、本まで読み始めている。
ぼくはそんな息子くんとお仕事体験を選びながら、
「これはお給料があんまり高くなさそうだね」とか、
「遊びとしてはいいけど仕事にするにはどうかな」とか、
ブツブツ脳内で注文をつけてしまう自分がいたことに恥ずかしくなった。
やることなすことが打算的で、小賢しくなるのはいつからだろう。大して賢くもないのにだ。そしてそうして選んだはずの仕事にも、やはりいつかは「飽きる」のに、である。
であれば息子くんのように、その時々の興味関心を優先にしつつ、いろんなことを股にかけて体験しようとするほうがいいんじゃないだろうか。キッザニアはぼくらにそんな生き方を提案してくれているのだ。
人生をキッザニアみたいな感覚で生きてしまえば、「飽き」とは縁遠くなるだろう。飽きたら違うことをすればいい、飽きる前に次を予定すればよい。興味の移り変わりを許すことで、以前は全く関心がなかった体験をやってみようと思えるかもしれない。そうすればまた「飽き」は遠ざかる。
キッザニア型の生き方がオワコン期対策になる理由はもう一つある。それは、いつでも初心者に戻れることだ。仕事が苦しくなる理由は、やり続けているとどこかで必ず”停滞”期が訪れるからというのがある。飽きとは異なり、もっと頑張りたいと思っているし頑張ってるのに結果が出なくなる。
仕事の面白さの一次ピークは初〜中級者時代に訪れるため、従ってキッザニア型の生き方であれば仕事が提供してくる果実をたくさん、しかも美味しく頂くことができる。
いいこと尽くしではないか!
フロー型の生活に徐々にシフトするために
キッザニア型生き方の実現には、マインド面や生活スタイルの方の準備、変更がかかせない。この点を整理してみよう。
マインド面や生活スタイルを、ぼくらに馴染みのある農耕型=ストック型の生活ではなく、はるか昔まで歴史を遡って狩猟採集型=フロー型の生活にシフトするのが理想だ。それは流石に無理でも、徐々に近づけていくことでキッザニア型生き方の実現性が高まる。
狩猟採集時代の生活スタイルを現代風にアレンジするメリットや方法は、この本なんかを読むと分かりやすいかもしれない。
ストック型マインド、つまり預金残高や職務実績という信用残高などの”残高”依存症から抜けるのには割としっかりとした意識転換が必要であり、最後にぼくなりの提案を3つ挙げてみたいと思う。
あまり先々のことばかり考えることはやめる
生活水準を上げない
飽きの運用に価値を置く
である。
1.あまり先々のことばかり考えることはやめる
哲学者のショーペンハウアーは著書「幸福について」の中でこう述べている。
私たちは現在に注目したり、未来に注目したりするが、処世哲学の重要なポイントは、このいずれか一方が他方を害ったりしないように、正しくバランスをとることにある。あまりにも現在に生きる、軽はずみな人が多い。他方、あまりにも未来に生きる、苦労性で小心な人もいる。厳密に正しい節度を守る人はめったにいない。
要するに未来ばかり考えても、今に集中してばかりいてもダメで、バランスが大事と言っているのだ。
ぼくらの世代では未来を予測し当てること、偶然でもラッキーパンチでもなく、予め計画されたことを達成することこそが賢者の証とされる。
先のニンジン(未来のいいこと)は、今の困苦を正当化するために使用される常套手段だと思うが、戦後の復興期に生まれたぼくらの親世代は、ぶら下がったニンジンを追う生活に慣れすぎた。人より先んじることこそが「賢さ」であり、人間の優れたところだと信じて疑わない。1世代変わったくらいではその価値観は変わらない。
だからぼくら世代も"あまりに未来に生きている"人が多いのではないだろうか。時代が変わり未来がより不確定になれば、またニンジンを用意してくれるはずのシステムがもう破綻してるかもとわかったら、人生オワコンだと思うのも無理もない。だからもういっそ未来のことを考えるのはしばらくやめてみようという話である。
「ああなったら」、「こうなったら」と結果を先に予測せず、「これなんか食えそうだから」という不純な動機でとりあえず動いてみるというフッ軽さが、ぼくらの老化に対する抵抗力になるはずだ。
2.生活水準を上げない
食べ物をたくさん摂取すると体型維持のための消費カロリーは増える。同様に、生活水準を上げると、家計維持のために必要な収入が増える。当然、もしもの時に蓄えておこうとする貯蓄額も大きくなる。
99%の人間は平凡なので、よりたくさん稼ごうとすると必然的に、一つの箇所でより長く、よりたくさん労働する、ということが確実な道になる。こうして労働時間は伸び、コロコロ仕事を変えるといったフッ軽さが犠牲になる。
これではキッザニアスタイルの生き方は難しい。同じ職場で長時間働くこと、さらに給料アップを考えるなら、職場の人間のご機嫌伺いも必要なことになってくるため、余計なストレスが増す。余計なストレスが増すのでまたその解消に出費がかさむ。かさんだ出費の補填にまた長時間の労働が必要になる。
多くの人が、収入に比例して自由度は増す、と思っている。実際は異なり、閑暇をどの程度有しているかが自由の最大の要件にもかかわらずだ。実態は”貧乏暇なし”ではなく、「そこそこの高収入が一番暇なし」ではないだろうか。
お金を使い切る前に生命を使い切る。いわゆる強制オワコンにならないためにも、生活水準は下げられるに越したことはないと思っている。
3.飽きの運用に価値を置く
ぼくらはそもそも、体験価値そのものに価値を置きすぎではないだろうか。でっかい花火を一度打ち上げたら満足できるほど、21世紀において人生は短くなくなった。そしてそもそも大きな花火なんか打ち上がらない人がほとんどである。
ぼくらが飽きていく生物なのだと受け入れれば、体験価値の向上よりも、飽きの運用が上手なほうがよっぽど幸福さに寄与するに違いないと思えてくる。つまり「より素晴らしい体験を探す」人生から、「なるべく飽きを感じない」人生への価値転換である。
そうすると、天職とか運命とか才能とか、探し物ばかりの人生が美しくも合理的でもないと思えてくるはずだ。
「飽き」を補ったり追い払ってくれるもの、すなわち「偶然」や、「他者からの推薦」、「些細なアクシデント」、「ダメ元」、「同時並行」、「中途半端」を歓迎しよう。
以上がぼくからの提案であり、これから試行していこうと思っている生き方である。
最後まで飽きずに読んでくれてどうもありがとう。
ぼくとあなたの「人生オワコンだ〜」と思っていた時の記憶がいつしか薄れ、めでたく"時間切れ"で人生が終わることを願っている。
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