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プロフィール

【加筆】2024年7月現在、満39歳の私です。
※前記事の後半に2021-2024年上半期の自分を追記しております。

2020年12月現在、満35歳の私です。

一人の大人として、日本から認定された「ハタチ」の頃から15年が経ちました。老けたなーってすごい思う反面、あまり後悔のない人生だったように思います。

いや、そうでもないかなー💦ここ数年でそう思えるようになったのかも。

記憶力が乏しく、あまり過去のことを覚えれない性分です。何事も前向きという言葉に逃避してますが、基本的に集中力散漫で、なにかと欠乏気味です。これに関しても、特性をまとめて、また記事にしてみたいと思っています。

改めて、自分の経歴を振り返ってみようと思います。いろんな方に自分のことを知ってもらえると嬉しいです。



新卒:大阪 真生印刷 「営業・ディレクター時代」

四天王寺大学(通称:IBU)という大学を卒業して、はじめに就職したのがココでした。

漠然と小説家になりたいと思っていた自分は、就職自体にあんまり興味がなかったので、実家に居続けるための手法として、とりあえず就活していました。
この頃は、尊敬できる大人に出会えてなかったんだろうな。


小説家になりたいし、出版社に入ろう → エントリー時期が終わってた。

じゃあ広告会社に入ろう → その頃、大阪では企業が少なかった。

じゃあ紙媒体でもいいか → 印刷会社 という流れです。


真生印刷は住吉大社駅に会社があり、春には桜のキレイな街でした🌸

メンバーにも恵まれ、とてつもなく楽しい会社でした。
労働時間でいうと、めちゃくちゃ働きまくってた記憶がありますが、周りに恵まれ、体力もある年齢だったので、振り返ってみると、とにかく走り抜けたって感じです。

今でも、LINEグループで交流したり、たまにみんなで呑んだりしてるので、サラリーマンになっても、青春させてもらったなーって感じです。
変な人多かったので、みんな今でも大好きです(笑)

この時期はエレクトロって音楽に衝撃を受けたり、登山にめちゃくちゃハマった時期なので、これもいつか書きたいと思います。

何事も3年と思っていた事と、これからはITの時代が来るなと思ってたこともあり、3年で退社→転職活動開始!となりました。


25歳:名古屋 TOYOTAコネクティッド IT営業時代

職業訓練校でIT関連の資格を取って、薄い知識なりにガッツのみで、東京のIT企業に就職が決まりました。

最終面談日が、東日本大震災の2011年3月11日だったので、色々めまぐるしく一気に動き出した事は今でも覚えています。

そんなこんなで、何故か最初の出向先が東京でなく名古屋になりました。

すごく拒んだのですが、最後の決め手は「家賃は会社が負担するよー♬」でした。


僕がいた頃は、トヨタメディアワークスって社名でしたが、毎月歓送迎会があるくらい、人の出入りが激しかったです。
今は正社員が978名(2020年9月末時点)のようです、僕の時は200名くらいでした。すごいペースだね。

そこでGAZOO.comという「クルマのmixi的なサイト」の、営業を担当しました。取引先もTOYOTAなので、みんな身内ですが、熾烈な争いも多かったように思います。

3年単位で、発注会社とベンダー同士が入れ替わったり、出向会社同士での派閥争いとかも、今思えばあったように思います。
パソナテックから来てる人がすごく多かった。
僕は神経が鈍かったので、そういうのには巻き込まれなかったですが、精神的にやられちゃってる人も多かったです。


イベントにもたくさん関わりました。ニュルブルクリンクの24H耐久レース、東京オートサロン、大阪オートメッセ。やっぱりイベント事業は楽しいです。

その頃はナイトクラブでもPartyの主催などしてたので、イベント三昧でした。
今でも、名古屋に戻るとあの頃のメンバーが熱く迎えてくれるので、第二の故郷と勝手に思ってます。
人の優しさに沢山触れた20代中盤でした。


東京に行く!と言ってたのに、気づけば名古屋で2年過ごしてしまっていたので、東京に行けないなら辞めます。と伝えて、退社しました。

今の、TOYOTAの「KINTO」の考え方にはすごく共感できるので、またいつか仕事で関わってみたいです。


27歳:東京 ASOBISYSYEM 音楽・マネージャー時代

僕が東京に行く!と大阪のフリーター時代に息巻いて発言していたのは、音楽が好きで中田ヤスタカさんが大好きだったからです。

「有言実行、自分にプレッシャーを!」の精神で、アソビに入りたい。
アソビに入る。と言いまくってました。
HPとかイベントも調べまくっていて、もう会社のファンでしたね(笑)

音楽・エンタメ求人情報の「Musicman」を見ても、なかなか求人のタイミングはありませんでした。
僕が最終的にはとった手段は直談判です。中川社長と話せる機会があったので、入りたい事を熱心に伝えました。それが入社のいきさつです。


僕が入社した2013年のアソビは音楽業界でも破竹(はちく)の勢いでした。
毎日スリリングでとても興奮して過ごしていました。

今思えば、その頃にもっと他の社員の人を知る。
自分を知ってもらう。って行動をしていればよかったように思います。

僕みたいに、社長の直談判で、知り合いのいない状態で入社したメンバーはほとんどいなかった事や、会社自体もイベント・モデル事業から、芸能事務所に変革のタイミングだったので、「イベントチーム」として、入ってきた僕はみんなと接点が少なかったように思います。


人生で初めて挫折したのは、ここでした。


自己評価もプライドも高く、結果が伴ってない現状を正しく指摘頂いてたはずなのに、それに自分がようやく気づけた瞬間、心が「ポキッ」と折れてしまっていたのです。

自分を見つめ直す機会となりました。


29歳:大阪 TryHard Japan イベント・DJスクール

イマココです。

大阪に出戻った僕は、とりあえず再就職して(とにかく自信家でした)、またぼちぼちDJやろうってテンションでした。その時に、DJ TAKU-HERO君という先輩に機会を頂き、トライハードのDJスクールに関わる事で、正社員として雇用いただけました。

自分は就職して、7年目になります。

会社のやってる事業や、そこで経験している事は、また一つの記事として書かせてください。とにかくすごい会社です。
ここで役員を勤めている事は、僕にとっての誇りになっています。


他 アルバイト 〜こんな事したよ〜

学生時代、フリーター時代(24-25歳)を経て、こんな事も経験しました。

・飲食店(王将、サンマルク)

・コンビニ(セブンイレブン)

・接客(イオン 紳士服飾)

・クラブスタッフ(南船場CELL)

学生時代、もっと面白い、不思議なアルバイトしとけば良かったなー。


という感じです。

なんだかんだ3,000文字くらいになっちゃった。

書くのって楽しい。以上です!



2024年7月8日【以下 加筆】

2021年からの振り返りをします。
※前文のような熱量で書けるかな、心配だ(笑)

-目次-

  • 36歳 南大阪 DJ-BAR OTO OTO

  • 37歳 CL Lounge

  • 38歳 初めての法人化

  • 39歳 鰻屋を始める

36歳 南大阪 DJ-BAR OTO OTO


2021年に入ってすぐにクラウドファンディングを始めました。


昨年末(2020年11月くらい?)に、会社を辞めるって言い出して、引き継ぎとかその辺りが始まってもない時期にクラファン立ち上げてるので、勝手なことしてるなーって感じですね。
改めてめちゃくちゃですね。

今でも、引き続き関わりのあるトライハードやCLUB仲間には感謝しかないです。

これからどうしていくとか、奥さんにもしっかり伝えてなかったように思います。

なので、大々的に

泉大津に帰るよ!

って言えない環境の中、SNSも上げずにDMだけでクラファン100万円集まってるのはすごいですね(すごいってのは、それでも支援してくださった皆様が)

まだコロナ禍の中、音楽Barを作る、仕事を変える。ってきっとよく分からない行動だったんでしょうが、自分はワクワクしてて、その気持ちは支援者には届いてたんだろうなーって信じてます。

コロナで世界が変わっていくぞ、ほな俺は泉大津を変えるぞ!的なテンションだった気はします(泉大津でおもろいことしていくぞ!の気持ちは今も強い。)


37歳 CL Lounge

Barを初めて、1年半 引き続き コロナ真っ只中です。

周りに恵まれ、なんとかやっていけてた僕は、次の出店を決めました。

何故かキャバクラですw

ナイトビジネスを経験してきた中で、漠然と興味があったんだと思います。

でも、今思えばそう言う店にほとんど行ったことのない僕が、ラウンジにトライするには圧倒的に知識と経験が足りなかった。

わずか1年半で解体となってしまいました。
派手に失敗した、巻き込んだみんなごめん(笑)

それでも後悔はしていないです、自分の人生の中でCL Loungeを作って現場に立って営業に関わったことは、とても大きいです。

見たことない人種の方といっぱい触れ合ったし、キャストの子と触れ合う中で生まれた絆は、今後の人生の糧になっています。

あと、個人的に、人の言葉でいちいち傷付かなくなったな、昔より。


・38歳 初めての法人化

CL Loungeの経営が下火になっていた頃、とても良い出会いがあり鰻屋を始めることを決意します。

良い出会いって言うのは、今年(2024年)春にOPENした

WHATAWON(ワタワン)という施設のオーナーに出会ったんです。


ただの泉大津の夜の人間である僕にも、ワタワンのお二人(キョーさん、トシさん)は、まっすぐ向かい合ってくれて、音楽の力、可能性の話を語り合い、心の火を灯してくれました。

最初は、ワタワンが始まったらイベントやりまっせー!的な勢いでしたが、そんな点だけの関わりだけでは勿体無い。
この人らともっと過ごしたい!と思っていた事もあり、ワタワンでの出店の契約をしました。

それがこの後語る、鰻屋です。

次の事業は、今より遥かに大きく、そして今以上に公明正大に組織を作っていきたいと思っていた事もあり、法人化を決意しました。


WABISABI株式会社

会社のことは、また数年後に加筆しそうな気がするんで省略しますね。
この会社のメンバーで音楽フェスを立ち上げるつもりです。
今は、鰻屋と動画制作事業のみ!


・39歳 鰻屋を始める

イマココですね

なんで鰻屋!?

ニッキーと出会ったからですね。僕はつくづく、仕事へのこだわりの薄い人で、人がおもろい。で仕事をしてしまう人のようです。

鰻屋のニッキーは何者? はこちら


現在、今年2024年の春に

本店となる泉大津市 うなぎの鰻次郎 と
アンテナショップとなる 岸和田市 ウナギニヌマリタイ

の2店舗をWABISABI株式会社で運営しております。

まだ、始まって数ヶ月、毎日バタバタです。
今から2週間後の土用の丑の日 が一番の繁忙期です。

食べに来るも良し、オンラインで頼むもよし。

皆さん、お待ちしています!


今回の急な4年ぶりの加筆は、最近出会う人に、自分の人となりのプロフィールを送る際、この記事を引用していたので、更新したという背景でした。
最後まで読んでくださってる方がいたら嬉しいです。

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