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フィンランドでのオープンダイアローグにいう、「安心・安全」「共有」「協働」「責任」「不確実」の日本語訳から受け取ることばの感触の違いのついて、つぶやき


 先日フィンランドのオープンダイアローグの実践者からの話しを通訳付きで聞いたが、そこで出た「共有」や「協働」「安心・安全」「責任」という言葉がもつ感覚が、日本とフィンランドでは違うのではないかと感じた。また、そうだとしたら「不確実」という言葉のもつ感覚も違うのではないだろうかという直感的な違和感があった。

「対話」はつねに他者を理解し続けたいと思い続けることとも言われていたが、それは、いかに自分を理解し続けたいと思い続けられるかの連続でもあるのかもしれないとも感じる。
 先日フィンランドのオープンダイアローグ実践者の話のなかで、対話に必要な要素を日本語訳したなかで「自分にも他人にも責任をもつ」と言われていたが、その言葉のもつ感覚も日本語のもつ感覚とはおそらく異なっているような感じが直感的にする。「責任」は応答すること、とも言われているが、それというよりも、その場で起こっていることにいかに自覚的であるか、身体まるごと起こっていることに注意を払えるかということ、のようにも思う。自分自身の変化、不快、心地よさ、それに加えて他の人の変化に関することも含めて注意を向けられること。それを注目することができ、その感覚に自覚できるような環境があることが「安心・安全」ともいう感覚とも近いのではないかと思う。

 そしてまたフィンランドのオープンダイアローグ実践者の話のなかで「安心・安全」が 大事と言われていたが、それも日本でのいわゆる「安心・安全」のことばが持つ感覚もおそらくすこし違っているのではないだろうか。子どもの哲学を探求している本間直樹さん はハワイでの対話を通して「安心・安全」について、それを「だれにとっても「安心」で 不快なことが起こらない、なんでも語り合える場所をつくるということではなく、いつ自分はセーフでなくなるか、自分セーフにさせなくするものは何かということを自覚しつつ 対話に参加すること。自分の身体的、感情的、知的コンディションによく注意を払う」と 言っていた。それは上記で書いた「責任」の印象と関連があるように思う。

 そのような自覚的になれる環境をひとりひとりにとって大事にするために、日本語で言う「安心・安全」な場をつくるような工夫をフィンランドでも取り組み続けていたのではないだろうか。そこには感覚に向き合うことができる静けさや、間が必要になっていくことなのだろう。だからこそそれがリフレクティングにおいても大事にされていることなのだろうと感じる。そのような自分の感覚 を大切にできる場という意味で「安心・安全」の感覚を捉えているのではないか、と思うと、日本で一般的に捉えられていた、危険な状況がない、リスクが少ない、自由になれるという意味を含んだ「安心・安全」という感覚とは異なっていると考えたほうが自分にとっては、なんとなくすっきりする。

 また、フィンランドで対話実践を行ってきたひとが抽出した、対話が成立する要素のなかで「協働しながらじっくり考え共有する」ということを日本語訳として言われていた。そのような日本語訳された言葉がもつ「共有」、「協働」という感覚もまた、そのままわたしたちはそのまま受け取っていいのだろうか。オープンダイアローグではポリフォニー、日本語では多声性と言われることが大事にされている。わたしにとってそのことが、「協働」 「共有」ということの感覚とうまくつながっていかない。 「協働」「共有」し続けることで何が起こるのか。それはまだわたしのなかではわからない が、対話を続けていくことがつねに変化と差異を必要であるとしたら、「協働」「共有」し 続けた後には「同意」や「理解」にいたり、差異がなくなり変化に乏しい状態になっていき対話の継続を困難にさせてしまうのではないかと感じてしまう。経済学者の安富さんは、 「英語のコミュニケーションの語源であるラテン語のコミュニカシオという言葉は、何かを共有することではない。そしてその反対語は「破門」」と話していた。また、「「コミュニケーション」は日本語 ではありえない感覚」、とも伝えていた。「コミュニケーション」とは破門しないことであり、「共に居ること」という。
 そもそも「コミュニケーション」する、ということは、日本人的には、どうしてもコミ ュニケーションは何かを「共有」することと思ってしまいがちであり、わたしもそう感じていた。しかし、日本人が捉えている「コミュニケーション」という言葉に含む感覚に違いがあり、そもそも「共有」なんてできない。それは「居る」ことであり、ただ近寄ったり遠ざかったりするだけなのかもしれない。もしそう考えるとすれば共有することもなく違いのままで「居る」ことを続けるということは、違いを違いのままにし、自分や他者の変化への自覚を続けていくことで、さらに違いが生まれ続けていくことになるため、対話が続いていくことになっていくのかもしれない。

 対話のなかで、何かを「共有」していなくても、その場のなかで互いが響きあったような感覚に至ることも実感として経験している。それは共に音を奏であったときのような共振の感覚。「共有」しているモノではなく、コトとしてともに揺れている感覚。
 同じ壁に並んでいる壁時計を見て、その両者の同期の発見をしたホイヘンスは、振り子が伝える壁の振動により、他の壁時計の同期現象が生じていたということに気づいた。スピノザは言葉のもつ音について着目しており、「母音は音楽の音だ」と言及している。また、 言語学者の時枝誠記も言葉のもつ音楽性に着目しており、彼は言葉の一番根底にあるのはリズムであり、まずリズムがあって、その上に単語が乗っていると。二人は言葉のもつ音 楽性において関連しており、音は何かを振動させることとも関連していることだろう。対話においても、それは言葉がさまざまなリズムや音が混然として響きあっていくことで、 そこに「居る」人々が揺れ合う、同期現象に関連しうる、共振の感覚にも近いことを伝えようとしていたのではないだろうかと思う。
 リフレクティングを提唱したトムアンデルセンは、「表現が先であとから意味が生じる」「言葉は多様な言語のひとつでしかない。奏でること、踊ること、描くこと、料理 することなども全て言語である」と伝えており、それを実践しようとわたしは言葉を休むノン バーバルのリフレクティングの試みを行ってきた。ノンバーバルリフレクティングにおい ても、言葉を休んでいて、音や身体の動きや絵などを使っているだけでも、何か互がゆらめきあうような体験ができていた。そこに居合わせることにより起こった、「コミュニケー ション」。言い換えると「共に居ること」により起こった共振とも言えるかも知れない。
言葉にならない部分のも音楽の力にも似たシンクロナイゼージョンに至るようなエネル ギーが存在する。スピノザがいう「コナトゥス」という力に働きかけるエネルギーのようなものを想像する。言葉にすることにより、意味に焦点が当たりすぎることによりその大 切なエネルギーがしぼんでいくこともあるのかもしれない。
 その観点では言葉の意味というものに焦点をあてすぎず、その場で起こっている見えないこと、に対して自覚し注意を向け、関心を寄せられることを感覚を大事できるという意 味合いの「安心・安全」ということの捉え方でいるほうがわたしにとってはつながっているように思える。

 同様にオープンダイアローグでよく言われる「不確実の耐性」ということばの感覚もまた、日本語のもつそれそのものとはまた違うのかもしれない。「不確実」の場にあるコト、その場に生まれつつあるエネルギーを蓄える、育てるという動的行為であるように感じる。 また考えていきたい。

 話は飛ぶが、どう生きていくか。倫理。自由。
それについては「選択の自由」従来のという価値観とは違う捉え方のようにも最近は感じる。
例えばリフレクティングの本にも取り上げられていたが、ダブルバインド理論と聞くと、どちらも選択できない束縛されたようや状況をわたしは想像してしまっていたが、選択というよりも、木村敏的にいう、状態としての自己が立ち上がらないことのよう。ラグビーの例えでいうダブルバインドでいうと、広いひとつのグラウンドを走り抜けることができなくされてしまう状態と思える。そうすると、繰り返すがダブルバインドにあるのは何かを選択できないことではなく、状態としての自己が成立し得ずに道を失うことなのだろうか。
そうした、何かを選択するかどうかではなく、「道」という考えが浮かんでくるが、それは親鸞の言っていた倫理観ともつながってくる気がする。

 倫理については親鸞の考えやスピノザとも関連している感覚がある。現代の哲学者のマルクスガブリエルも今後の社会活動、経済活動におい ても倫理が重要であることを言及している。倫理についてもまた引き続き考えていきたい。

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