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【28日目】野球選手を目指す神さまの物語(セカイのトリセツ)


※ご注意※
 『モトの話』の最終奥義として【神さま】の話をしています。
 ですがこれは

  • 特定の宗教への勧誘

  • 創作した宗教団体への勧誘

  • モトの話への信仰の要求

を目的としたものではありません。


◆神さまは自身に似せて人間を創った?

 前回、オドロキの結論が得られました。すなわちこのセカイにあるもの、そしてこのセカイに「ないもの」すべてが【神さま】なんです。【神さま】というのは「うに」で、うにはモトでできている、ゆえに【神さま】は「素粒子モト」によって表示されているアニメーションすべてである、というふうに結論付けられます。
 つまり、僕ら自身も【神さま】のいち部分でありながら(うにのトゲ理論)、【神さま】という存在の「内側」に存在していることになります。なんという高度な設計!!!

 こんなふうに「設計」があるということは、もちろん

「設計思想」(なんでそんな造りにしたか)

があるということです。そしてこの「設計思想」こそが僕たちが探るべき「うにの気持ち」であるはずです。

 ではさらに深く、この「うにの気持ち」を探っていきましょう。

 キリスト教の旧約聖書に、神が人類を作るまでの物語が書かれていることはよく知られています。その中の有名なフレーズに、

「神はご自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)

というものがあります。

 これは神話ですが、モトから考えられる【神さま】についてもこれと同じことが言えます。僕たちのココロはモトの集まりですので、全部のモトの集まりである【神さま】を僕たちサイズまで小さくしたもの、つまり

【神さま】の相似形

が僕たちである、ということになります。
 旧約聖書と違うのは、これは「すべての生き物」に当てはまるという点が一つ(旧約聖書はあくまで人間が神に似せて作られたことを物語っています)、もう一つは「モトには個数がある」ので、僕たちが持っているモトの数が【神さま】にはとうてい及ばない、という点です。

 人間が神さまに似ている、というのは、姿かたちの話ではなく、その「性質」の話です。人間は四肢のある生き物の形をしていますが、それはあくまで「肉体」というもので、「僕たち自身」というものは本来は【三つのパーツの集合体】だと、この『モトの話』で何度もお伝えしてきましたよね。そしてその中でも「モトでできている」ココロはどうかというとこれは「カラダの周りをおおっているモトの煙のような形状」だと入門編で書きました。僕たちのモトが一番濃い部分が「物質」である肉体のある場所で、その周りをモヤモヤとココロがおおっているような、そういう形をしたもの全体が「僕たち自身」だよ、という話でした。もちろんこれはすべての動物・植物・生き物に共通している命の「性質」でして、これが結局【神さま】の相似形だという話なんです。

 こういった「小さな【神さま】」の形をした「生き物」というものが、【神さま】自身の内部にたくさんいる……その材料が神さまそのものである『モト』だ、ということなんです。だからもちろん個々の生き物というのは、すべてのモトを合わせた姿である【神さま】とは、モトの量が比べ物にならないほど少ないことになります。それこそ、太陽と砂粒ほども違いがあります。


◆「自己評価」の基準は「他人の声」だ

 ではそんな「自分の劣化コピー」のようなもの(生物)をわざわざ「こさえる」ことで、【神さま】は何をしようとしているのでしょうか?
 それを探るために……ちょっと「劣化コピー」である『僕たち自身』について考えてみましょう。

 もしあなたが今
「あなたは「自分」が好きですか?」
と聞かれたら、どう答えますか?

 僕は今なら「大好きさ!」と迷わずに答えられるのですが、実はほんの数年前までは大嫌いでした。何をやっても人に嫌な思いをさせてしまっている気がして(そして実際にそのとおりで)、この世から消えてなくなりたいと思っていたし、逆に自分の思い通りにならないこのセカイが消えてしまえばいいのに、とも思っていました。マクドとファミマ以外は消滅してしまえ、くらいに思っていました……(マクドは好きですし、ファミマは近いですし、あと家があればいいやくらいに思っていました)。

 みなさんはどうでしょうか? 自分も周りの人々も大好きで、人生やってて楽しい!! という人もまあまあ結構いるでしょうけど、昔の僕みたいにどうしようもなく「自分が自分であることがイヤでたまらない」という人もいるかもしれませんね。

 こういう「自己評価」のようなものは、実は

周りにどう言われているか

に大きく影響されます。


◆野球選手になるために

 理解しやすいように、ちょっと例え話をしましょう。ここに
「オイラは野球がめちゃくちゃ上手いぜ!」
と思っている少年がいるとします。ただし……なんと彼は野球をしたことがありません。テレビで野球を見るのが好きで、壁に向かってボールを真っ直ぐ投げたり、バッティングセンターでそこそこ速い球を打ったりしたことがあるだけです。それで自分で(オイラはきっと野球が上手いはずだぜ!)と信じているんですね。無邪気です。無邪気のカタマリです。

 ある日この少年が、リトルリーグに入ることになりました。少年は自信満々です。誰よりも野球が上手いつもりでいます。ですが……読者の皆さんのほぼ全員が予想しているとおり、おそらくほんの数日で、その自信は粉々に打ち砕かれるでしょう。

 世間に出ると必ず「周囲の人間」を見ることになります。そしてその人々がやっていることも見ることになります。そしてやがて、そういう人々に「評価の言葉」を投げかけられます
 少年の周りはもちろん「野球経験者」ばかり。投げる、打つなんて基礎技術で、その上で野球に必要な「チームプレー」も熟知しているわけです。投げたり打ったりするのが野球で「オイラは野球が上手い!」と考えていた少年は、あっという間にその考えが浅はかだったことに気づくでしょう。このとき、周囲に「お前は野球が下手だなぁ」なんて言われてしまったら……無邪気な自信の根拠をボッキリ折られてしまうわけです。きっと彼は、練習の帰りに川の土手で体操座りして
「オイラ……野球上手くなかったんだなぁ……」
なんて、涙でにじむ夕日に向かってつぶやくことになるでしょうね。

 そしてこれから先も、誰もが何度でもするようなこういう経験が幾度となく少年に襲いかかり、そしてそのたびに彼は「オイラはダメなやつだ」と落ち込んでしまうわけですが、このときもし周りに
「そんなことないぜ! お前だって頑張ればすぐに上手くできるようになるさ!」
という『当たり前の励まし』をしてくれる人が一人でもいれば、きっとこの野球少年は立ち直って練習に励んで、いつか本当に「ちゃんとした野球選手」になる日が来るのかもしれません。
 ですが、周囲の全員にいつまでもいつまでも「お前はダメだ」と言われ続けたら……少年はきっと早いうちにグラブを放り投げてしまい、二度と手に取らなくなるでしょう。そうして「自分はダメ人間だ」と信じ切ってしまった彼は部屋に引きこもりがちになって、ブツブツと
「マクドとファミマ以外の人類なんて滅べばいいのに」
なんてつぶやく昔の僕みたいな本物のダメ人間になってしまうかもしれません。
 こんなふうに、周囲の言葉の力というものは、とても大きく本人の自尊心に影響するんですよね。読者の皆さんにもご経験があるでしょう。

 さてさて……僕たちはそんな経験を何度もしながら、やがて思春期に差し掛かる頃になると、こういうことが気になり始めます。

「周りは自分をどう見ているんだろう」

 実はね……【神さま】の「気持ち」ってこういうものなんじゃないか、と僕は考えています。だから僕たちを創ったのではないか、とね。


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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)