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【20日目】究極のモトあつめ『許すこと』(ジンセイのトリセツ)

◆幸せって何だっけ

 これまでの話にあったとおり、この世界は【地獄】でして、地獄には【大いなる矛盾】というルールがあるのでした。そんな恐ろしい世界に生きている僕たちに

幸せ

というものはあるのでしょうか?

 ……ありますよね? 「24時間ずっと幸せ!」という人は少ないでしょうが、少なくとも「24時間ずっと不幸!」という人はそんなにいないのではないかと思うんです(そう思っている人は、もうちょっと自分の人生をよく、よく振り返ってみてください……トイレをガマンしてたとき、個室に飛び込んだ瞬間とか結構「幸せ」を感じているはずです)。

 仏教では幸せ(慈悲)のことを「抜苦与楽」(ばっくよらく)というそうです。つまり幸せとは、苦しいことから開放されることと、嬉しいことや楽しいことをすること、ということです。

 幸せとは何か? と聞かれたとき、たいていの答えは

  • 家族と過ごす時間が幸せ

  • ひとりで読書する時間が幸せ

  • 恋人と過ごすなんでもない時間が幸せ

  • プラモデルを組み立てているときが幸せ

  • 過去の写真を整理しているときが幸せ

  • 女王様に悪口を耳元でささやかれているときが幸せ

などなど、本当に人それぞれです。だから「自分の幸せが分からない」なんていう人も、もしかしたらいるかもしれません。


◆モトによる「幸せの定義」

 さて、『モト』という視点で「幸せとは何か」と考えたとき、こういうことは全部

【個別のドラマ】

に分類されます。人それぞれだからです。これらの【個別のドラマ】に共通する「気持ち」があって、モトの考え方はその気持ちそのものを「幸せ」と定義します。

 幸せな気持ち、というくらいなので、幸せは「感じる」ものです。つまり感情の一種であると言えます。
 ここで思い出してほしいのは【好き嫌いゲージ】です。感情はココロから出てくるもので、ココロはこの【好き嫌いゲージ】を見てどの感情を出すか判断していましたよね。

 幸せな気持ちが出るメカニズムはとてもシンプルです。要は、好き嫌いゲージが『好き』側で高止まりしている状態を「幸せ」と呼びます。早い話が、どんな方法(=個別のドラマ)でもいいので、好き嫌いゲージが『高止まり』しさえすれば、それは幸せだということです。
 さっき書いた「トイレに駆け込んだとき」の「幸せ感」は、トイレにいる間は『好き嫌いゲージが高止まりしている』ことを表している、ということです。


◆『許すこと』はモトあつめの究極ツール

 逆に言うと、僕たちは他の方法で「幸せ」になることはできないということです……これはココロという器官の機能の問題だからです。中級編『オカネのトリセツ』でも出てきましたよね。オカネを集めても好き嫌いゲージが上がらなかったら「幸せにはなれない」んです。
 だから結局、幸せに生きようとするなら「モトあつめ」をするしかない、という結論になるんですが……問題は

集め方

です。モトの集め方には、二種類あるんでしたよね。

  • 一番目のモトあつめ(奪うモトあつめ)

  • 二番目のモトあつめ(増やすモトあつめ)

 で、どうせなら二番目をやったほうが全体的にモトが増えるからいいよね? という話を、初級編からずいぶんやってきたもんですが……覚えてますよね?

 実はその「二番目」をやるための究極のツールがあります。それが前回出てきた

『許すこと』

なんです。


◆『許すこと』は最も難しい「行動」

 なぜ『許すこと』が大事なのか? というと……
 実はこの『許す』という「行動」は、生物が行うことの中で最も

「知的な活動」

だからなんです。難しいのです

 動物を飼っている方ならご存知でしょうが、動物は「許して」くれません。たとえばゴハンの時間になったら催促してきますし、それを放っておいたら攻撃してきます。今日は忙しそうだからいいか、と「許して」くれたりしません。
 この「許し」を「行う」ことができるのは、知能が発達した生物だけなんです。人間もその一種です。なぜなら、この「許す」という行動は

モトの流出を「防がない」と【アタマ】で決める

という行動だからです。自分のモトを相手に与えようという考えなんです。

 この『許し』は、幸せなモトあつめのための究極のツールです。次回からもっと詳しく解説していきますね。


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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)