6-5-2:許す・あきらめる・愛する=アタマで「幸せ」を創る②(人生はなぜ辛いのか?と思ったときに読む『モト』の話)
6-5-2【許す・あきらめる・愛する=アタマで「幸せ」を創る】②
「あきらめる」力を手に入れよう!
「あきらめる」という言葉には、とてもネガティブなイメージがあると思います。実際に何かを「あきらめる」ときというのは、とてもイヤな気持ちになるものです。大切なものや、大切な人との関係を手放すことになることが多いですからね。
ですがこの「あきらめる」という言葉は、もともと仏教用語だそうで
「明らかに見極める」
という意味を持っていた言葉なんだそうです。僕の言う「あきらめる」は、むしろこちらの意味に近いと思います。
今起こっていること、今対峙しているものが、どういうものなのか。その「本質」を、アタマで考えて理解しようとする。
そして、それが自分が「幸せになる」ために「不必要」なものであるならば、手放す。
これこそが、僕の言う「あきらめる」という行動です。
キーになるのは、やはり「アタマの使い方」です。前述の通り、感情が起こること自体は自然なことです。ですが、その『後』で、アタマを使ってもう一度考え直してみるんです。
この「作業」が習慣になると、いろいろなことを「許せる」ようになってきます。
「怒り」と「許し」と「あきらめる」力
こういったことが特に難しいのは「怒っている」ときだと思います。怒りについても第三章で書きましたよね。何度も書きますが、怒りは防衛反応です。
怒っている度合いが高いときほど、その怒りを静めて「許す」ところまでいくのには、とてもアタマの力を必要とします。時間もたくさん必要かもしれません。ですが、目指していれば必ず「許し」に到達できます。
そのためのキーワードはやっぱり「モト」です。
突き詰めて考えると、僕たちはみんな「モト」でできている存在です。カラダという明確な境い目があるせいで、普段はほとんどわからなくなっていますが、モトでギチギチに埋まっているこの地獄世界に「表示」されている僕たちは、本質的にみんな「同じもの」の一部に過ぎないんですよね。
ですから、折に触れて世の中では「私たちは目に見えない絆でつながっている」なんて言われますけど、あれはモトの観点から言うと至極当たり前の話なんです。
そんな世界で、あなたと私に「便宜上」分かれているのが自分と他人です。ですから、自分も他人も、お互いがお互いの「中」のことがわからないだけで、本当は物理的に「同じ存在」と言ってしまえるんです。
「他者」は形が違う「自分」だ
「は? ナニ言ってんのコイツ?」という感想ではないかと思います(笑)。
この事をちゃんと理解するには、モトやモトから分かる世界の仕組みについての、もっと深い知識が必要になります。その辺については次の章で少しだけ書きますが、詳しく書くととんでもなく長くなってしまうので、いずれまた別の本で解説するつもりです。
というわけで、今はともかく
「相手がすることは、自分もするかもしれないこと」
くらいに思ってください。そうすると、相手がなぜ自分を怒らせてくるのか、あるいは悲しませてくるのか、辛い思いをさせてくるのかが、少しずつ分かってきます。
そして、思い出して欲しいことがもう一つ。それは、すべての人の行動は
モトあつめ
を元にしているのだということです。
第二章・第三章で詳しく説明した通り、僕たちのココロは常に、モトを集めようとしてカラダとアタマに様々な命令を出します。この命令こそが「感情」と言われているものです。
通常、生き物は感情を最優先にして行動します。「気分で行動する」ということですね。それはココロがモトを必要としているからです。
あんまりアタマで考えずに行動する人は、ココロの命令である「感情」の赴くままに行動しているということで、それはつまり、その人はそういう方法でモトあつめを「無意識に」行っているということです。
つまりです。どんな人もその人なりのやり方でモトあつめをしながら生きているのであって、あなたにネガティブな感情を抱かせる人も、そういうモトあつめの仕方をしているにすぎないのです。
この仕組みが理解できると、あとは自分が相手のモトあつめに付き合うかどうかを
自分で決める
だけです。そう、仕組みがわかっているんだから、コントロールができるようになるんです。これこそが「あきらめる」という動作なのです。
様々な生き物の中で、人間だけは「アタマ」を働かせることによって、モトあつめ自体をコントロールすることができるんでしたね。あなたは、どうしますか? 大事なのは結局そこだけだと言えます。
「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)