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【16日目】命の個数とカラダという『境い目』(ジンセイのトリセツ)

◆カラダという一人ぼっちの【境い目】

 というわけで、僕たちは「自分をやめられない」世界に生きています(地獄ですね)。これは全員がそうで、人間に限らずあなたが昨日の夜キッチンでぶち殺したイニシャルG(初級編参照)もそうなんです。あいつらはたくさんいるけど個体はやっぱり個体で、その中の「意識」にあたるものは、他の個体になることができないわけです。

 こういう構造を【ひとりぼっちの世界】と名付けました。僕たちは全員この【ひとりぼっちの世界】を背負って、次々にやってくる【関わりの網目】に従って、他者と関わって【個別のドラマ】を体験していきます。これが『ジンセイ』というものの、客観的な姿です。

 そういう「構造」をした『ジンセイ』が「なぜ」「ある」のか?

 これからそういう話になっていきます。いよいよ『モトの話』の本質にせまっていきます……他者とは、何でしょうか? なぜいるのでしょうか?


 ここでちょっと復習を。入門編で書いたことなんですが

【カラダ】

とは何でしたっけ?

 あの時書いたことはこうです。僕たちは【カラダ・ココロ・アタマ】という【三つのパーツ】の集合体で、ココロとアタマは別なんでしたね。そしてカラダも、もちろん別だと。
 そしてカラダというものは「肉体」を表すだけではなく

【境い目】

だと話しました。【6日目】の「死んだらどうなる?」という話のときも出てきましたね。

 でも……入門編でこの話をしたときのことを思い出してほしいのですが、カラダは「便宜上」境い目の役割をしているんでしたね。

 なぜなら『モト』というのは【素粒子】だからこの世界のあらゆる場所にあって、このカラダという【境い目】がないと僕たちは『個』ではなくなってしまうからだ、という話でした(あのときは難しかったでしょ?)。

 ですから、こうも言えちゃうんです。

『あなたのココロはモトでできているけど、僕のココロもモトでできていて、そして世界の全てはモトでできているので、本当は【境い目】なんてない

 いうなれば僕たちは地獄の世界で【個別のドラマ】を体験するために便宜上『個』であるわけです。つまり……いいですか? 難しいことを書きますよ……

本来なら『個』である必要がない

ということになります。


◆命は「何個」あるのか

 この世界が「どこまで行ってもモトでできている、シームレスなモトの連続体」(入門編参照)という構造をしているのは、この『個』をどう扱うか、ということを可能にするための構造なんです……また難しくなりますけど。
(この構造はエキスパート編でしっかり説明します)

 こういう「小難しい」構造をどう説明するか……そこで考えた「質問」があります。

 みなさん……『命』って、全部で何個あると思います? 考えたことありますか?

 子供の頃に見たとある有名な特撮番組で、主人公の光の巨人が宇宙怪獣にやられたときに兄弟子が光の国から助けに来るんですけど、その時

「私は命を2個もってきた」

って言うシーンがあるんです。そしてその命で主人公の巨人と、巨人に変身する隊員が生き返るわけなんですけど……命が「2個」って!! と子供ながらにツッコミを入れていました。何じゃそりゃ!!!
 あの世界では死んだ人を生き返らせられるこういう「命」がどこかに埋まってて、鉱山で掘ってくるんですかね? それとも海に網を投げて獲ってくるんでしょうか?

 だいたい、人間がここ100年で40億人ぐらい増えているんですけど、この40億個の『命』って、どこから来たんでしょうか? どこかにストックがあるんでしょうかね?
 ほかにも、恐竜が絶滅したとき失われた大量の『命』は、どこへ行ったんでしょう? 余ったら保管に困りませんかね?
 死んだタマシイがみんなどこか同じところに行くのであったら、あの世はギュウギュウになるはずです。困ったもんです。

 こういう問題をスパッと解決する概念が一つだけあります。

 もともと「一つしかない」のです


◆カラダが「なぜ」必要なのか

 一個の豆腐を二つに切ったら、二個になります。これを半分ずつにしたら4個だし、さらに割ると8個、次は16個……増えていきますよね?

 いやいやいや、小っさなっとるがな! とお思いでしょうが……このとき大きさにこだわらずに「個数」だけ見ると、最初に「一つだけ」あれば、あとは分割していけばいくらでも増やせることになります。理論上は「豆腐の分子の数だけ」増やせることになりますね。

 実はね……僕たちの『命』というものも、こういう要領で『個』を形成していますだから【境い目】が必要になるんです。境い目がないと豆腐本体なのか、豆腐のかけらなのか、見分けがつかなくなるからです。

 つまりどこか(おそらく【天国】)に「命の本体」のようなものがあって、今の僕たちの『自分の命』というのはその一部分だったもの、ということになります。

 こう結論づけると、命は余らないし、足りなくなることもないんですね。安心です……問題は

『自分の命とは、じゃあ何なんだ?』

ということです。どうしてこういう話をするのかというと、これを突き詰めていくと「他者」というものの本質が見えてくるからなんです。自分自身の「構造」が理解できると、他者も「同じ構造」だと理解できるからです。


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日南本倶生(みゅんひはうぜん)
「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)