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《夢儚散文33 余白の空》#掌編小説

袋小路に迷い込み、今まで歩いて来た道が間違っていた事に気づいた。
視界が歪むほどの酩酊のなか悪態をついて、道脇にあったゴミ袋を思いっきり蹴飛ばした。壁にぶつかり破裂したゴミ袋は轢かれた猫のように内容物をブチ撒けながら転がった。
勢い余って倒れ込み、アスファルトに頭を強く打ち付けると、鈍痛が走り右目の視界が赤く染まっていく。
死体が転がされるように力無く仰向けになり、ビルの隙間から見える余白の空を見つめた。
灰色の空と血で染めった空の下、電線に止まっている一羽の鴉が、顔を傾げるような仕草をしながら静かにこちらを見つめていた。

排水口から漂う下水の匂い、飲食店の換気扇から出る油っぽい空気、散らばったゴミから放たれるチープな甘ったるい薔薇の香水の香り。
この東京のニオイと自分自身の血の匂いが混じりあい吐き気がして、うつ伏せになり嘔吐した。
額から流れる血を抑えながら、不思議と生きていると言う感覚を味わっている気がしていた。

東京に出て来てから、感覚が鈍っていたのかも知れない。むしろ麻痺させて生きていたのかも知れない。
痛みと共に溢れ出てきそうな感情。
繊細なガラスの器に泥が注がれ続け、その水圧で器がバラバラと崩れて落ちた地面には、大きな汚泥の水溜りが生まれた。
その中心に寝転がっている自分の情景が余白の空に幻影となって映し出された。

「懐かしい景色だな」

5歳の時に離婚した母。
当時、転がり込んできた若い男がいて、母が仕事に行っている間はその男と二人っきりだった。
その男の記憶が泥人間だった。
母がいなくなると、またあの時間が始まると言う恐怖で泣き続けた。
人だったはずの男がドス黒い泥で覆われていく。
その泥人間となった男が視界に近いてきて、目の前が泥で覆われると、記憶を失い朝を迎えていた。
帰ってきた母にはいつも怖い夢を見たと言っていた。

泥が迫ってくる恐怖。
泥に飲み込まれる恐怖。
泥で溺れる恐怖。

その頃からか、泥にまつわる悪夢が現実の世界で、無地の壁や空を見ると現れるので、できるだけ余白の無い世界で過ごそうと思っていた。

中学を卒業したらすぐに東京に出てきた。
人波、満員電車、溢れる広告、自己主張し続ける店の看板、背比べをしているように見えるビル群、そして都会の人間の営みとしての臭気。
余白は空しかない街。
埋め尽くされた欲望の混沌が、余白を恐れている人間には生き心地が良い気がしていた。

中野の風呂無し安アパートで生活を始めた。とにかく余白を恐れて何でもいいから仕事を入れた。建築現場の肉体労働、バーテンダー、短時間での食器洗い、ティッシュ配りなどから始まり夜の仕事のキャバ嬢や風俗嬢の勧誘など、強迫観念的に余白を埋めまくった。
たまに仕事が無い日が生まれてしまい、ゴミ屋敷寸前の荒れたワンルームのベッドの上で横になっていると、耳鳴りが聞こえ動悸が始まると、見ている世界の色相が冷たく変化し彩度を失っていく。
その症状が出る時は決まって玄関の下から泥が流れ込んでくる幻が現れた。

全ては余白があるせいだ。
そんな時は余白を埋めるために爆音のクラブへ出向いて踊り狂い、記憶を無くすほど酩酊して、女をナンパして寝ると言う刹那的な時間を過ごした。
朝、ラブホテルで目が覚めると隣で寝ている知らない女の寝顔が泥で顔が覆われていた。

正気と狂気の狭間で感覚を麻痺させていないと生きていけない。
そんな気がしていたら、いつの日か味覚が失われていた。

味気の無い世界が始まると、あらゆる人々の顔が泥で覆われ表情が見えなくなっていった。
ある朝、自分の顔を鏡で見ると、あの男と同じ泥人間になっていることに気づいた。
あの男もこんな生き方をしていたのかも知れないなと思った。

昨日、母から電話があった。
あの男が自死したとの報告だった。
それを聞いて最初に生まれた感情は、
「別に」だった。

溢れでる黒い泥の心と空っぽの余白の心。

「別に」と言う無関心な言葉の中に実は感情を失うことで、余白を欲していた自分に気づいた。
無味無臭も、無感情も全ては余白を求めていた証なのかも知れない。

東京の空の下、あの鴉がだけが私を静かに見つめている。
泥は沼と変わりずぶずぶと地面へ沈んで身動きが取れなくなっていく幻影に襲われた。
このまま沈んで行くとどうなるのだろうか?
と沈没に思いを馳せ、自暴自棄を超え諦めの心で余白の空を眺めたていたら、祖父の顔を思い出した。

泥人間と常に情緒不安定な母との歪んだ日常。下弱い幼児の生きるための表現として、泣き、笑いを駆使して必死に取り繕っていたが、唯一の救いとしての母からも正しさと言う名目の虐待が始まり、安住の場所はこの世界に存在しないことを小学生の時に悟った。

ただ、たまに預けられた祖父が、虐待にアザを見るたびに毎回涙を流して長い間抱きしめてくれていたことがあった。
どんな感情になって良いか分からず、いつも抱かれながらぼうっと白い余白の天井を眺めていた記憶がある。

そんな記憶を随分と奥底にしまい込んでいたことを思い出した。
なぜ奥にしまい込んでいたのか?と言うと罪悪感が生まれるとき、必ず祖父の顔を思い出すからだ。

中学生の頃から反抗期が始まり、万引き、恐喝、暴行、スプレーでの落書きへの衝動が抑えられず、何度も警察に捕まった。
母には「産まなきゃよかった」と言われた。
祖父はいつも泣きながら抱きしめてくれていた。
そんなときに決まって罪悪感が生まれた。
罪悪感を感じたく無かったので、感覚を出来るだけ麻痺させて生きる事で、祖父との思い出を段ボールにしまい込んで押入れの奥底へ押し込んだ。

今、その罪悪感が人生の救いの糸のような気がしていた。泥沼から這い出すためには、あの祖父の存在が鍵である気がした。

袋小路の真ん中にカーブミラーがあった。
倒れている自分を中心にこの世界が広角に歪んで映り込んでいるのが見える。
流血している頭を押さえながらゆっくりと立ち上がり、カーブミラーに近づいて自分を見つめた。
顔の半分が赤く染まっていた。
力無く開いている口を見たら、中学生の時の美術の教科書で知ったムンクの叫びを思い出した。
あぁあんな感情で叫んだらいいのかも知れないな。
カーブミラーに映った自分を見つめながら同じポーズをとって大声で叫んだ。

感情の泉が発掘された。
水が溢れ出し、体中にこびりついた泥を洗い流し始めた。
嗚咽しながらの涙と頭から流れる血液と口から流れ出る唾液が冷たいアスファルトを濡らした。
決壊した心は、底に溜まっていた汚泥さえも流していく。
そう言えば、小学生に上がった頃から涙を流したことが無かったことも思い出した。

「…20年振りの涙だな…」

もう一度カーブミラーに映った自分を見つめた。
自分の顔が祖父のあの悲しい顔とそっくりだった。麻痺していた感覚が戻り、世界は色味を帯びていく。

「じいちゃん…ありがとう…」

震える声でそう呟き、祖父の抱擁を思い出しながら爪が腕に刺さるほど力強く自分自身を抱きしめた。
口の中で血の味がした。戻った味覚で命の証を味わっていると笑いが込み上げてきた。
久しぶりに笑った。

電線に止まっていた鴉はその光景を一部始終見つめると、朝やけで淡く色を帯びていく余白の空へ飛び去っていった。

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