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《夢儚散文5 歯を食いしばるとき》

歯を食いしばることがある。
それは溢れ出る感情を抑えるときに。

中学生の時に出会った彼は歯軋りで歯が欠けたことがあると、この世界をどこか冷めて見つめる細い目をして言っていた。
父親が連帯保証人の借金を抱えてしまい、子育てが出来ないとのことで預けられた児童福祉施設。
そこは彼の安住の地ではなく、日常に虐待が行われる施設だった。
「安心したことなんて人生で一度もない、誰もいない部屋の中で独りでいる時が、唯一安心できるときかもな」
彼はそう言い終わると眉毛を小さく動かし、軽く引き攣るように頬を動かした。
「それで大丈夫なの?心は平気なの」
「大丈夫なんて記憶はもう忘れちゃっているのかよく分からないんだよ。かーちゃんにもなんだか嫌われていた記憶しかないしね。6歳の時に胃癌で亡くなったけどよ」
彼はそう語るとあくびをして、電気の紐に手を伸ばした。
「もう電気消すぞ。眠いからな」
フローリングの上に私は横たわり、渡された毛布をかぶった。
男のすえた匂いと洗濯洗剤の芳香が入り混じる。

一度眠りに落ちていたが、尿意によって目が覚めた。
男の一人暮らしらしい水垢汚れのあるユニットバスのトイレで用を足して、もう一度毛布をかぶると、真っ暗な6畳の部屋に聞き慣れない音がこだました。
それが初めて聞いた歯軋りの音。

そんな出来事から10年の時が過ぎ、彼は自ら首を括って35年と8ヶ月の生涯を終えた。
ちょうどゴーダマ•シッダルッダーが悟りを開いた人生の時間を彼はこの世界で歯が砕けるほど歯を食いしばって生きていた。

私は何も出来なかった。
もっと何か出来たのではないか。
あの時の言葉で傷ついていなかったか。
訃報を聞いた時、彼との会話を思い出せるだけ思い出した。
あの時、あの時、あの時の事…
それは陸地が見えない真っ暗な海で溺れて、もがき続けて希望も失ったとき、ふと自分勝手に世界がもっと優しければなんて思ってしまったあの日。
そんな諦めの感情が生まれたことにすら自分の心の片隅に憤りを抱えている。

自分より随分歯を食いしばった男がいたな。
そんな思い出が私の感情を奮い立たせる。
「あいつの人生を思えば、おれの人生に起こっている事など大した事ではないな」
歯を食いしばる時はそんな彼を思い出す事がある。

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