《夢儚散文20 猫の胸の中》
夕陽が落ちるのを見つめていると、背後から猫が擦り寄って来た。
茶トラで体の大きな雄猫は、頭を撫でてあげるとゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
河川敷には私とその猫だけが人間の営みと自然の境にポツンと存在し、マグロの切り身みたいな段々な夕焼け空がどこか美味しそうに見え、自分がお腹が空いている事に気づいた。
茶トラはひっくり返り、太ったお腹を撫で撫でして欲しそうに体をくねらせ始めた。
夏毛に変わろうとしているようで撫でれば撫でるほど細かい毛がタンポポの綿毛のように宙を舞った。
赤い空の下、猫との戯れが、どこからとも湧いて出てくる散漫で陰質な意識を和らげていることに気づいた。
「猫は精神安定剤みたいだね」
両脇に手を入れて抱き上げると茶トラは無抵抗にだらりと足を伸ばしたまま、とろけた顔をしている。
「悩み事はお前は無さそうだね。羨ましいなぁ」
私がそう呟いても、何も気にせずチカラを抜いて目を細めて笑ったような表情をしていた。
猫の胸の中に顔を埋めてみた。
お腹の白い毛並みから真っ暗闇な世界へ。
ゴロゴロと心地良く体に響いてくる喉の音が頭蓋骨を柔らかく振動させる。
真っ暗闇の世界の真ん中に井戸が見えた。
私は井戸に近づき、中を覗いてみると、真っ赤な空と私の影が水面に映り込んでいた。
影と私は静かに見つめ合っていると、囁く声が井戸の中を反響した。
「無いものばかり探して、悔いても仕方が無いだろう。育み方が下手だなお前は」
私の声でそう聞こえた。
井戸へ向かって私は言った。
「育み方って?」
小石が落ちたのか井戸の水面に波紋が広がり、私の影のカタチが揺らいだ。
「足元に生えている雑草でも見ろよ。種が落ちたら、その環境で命を全うするしか無いんだよ。お前も一緒だ。この世界にただ種が落ちたんだ。そこで命を懸命に全うするだけでいいんだ。それがお前の育み方ね」
揺れた影は次第に私のカタチに戻っていく。
私は影へ向かって言った。
「なかなかね、そうは思っても思い切れない自分がいるんだよね。それがお前と言う存在じゃ無いのか?」
私の声と共にいくつもの波紋が影を襲い、赤い空と黒い影が交じり合う。
「死に切れないんだな。お前は。勇気を持って飛び込んでみたらどうだ」
影は両手を伸ばすと井戸に捕まっている私の手を掴んだ。
私は恐怖し抵抗したが影の手は鉄製の腕輪でも嵌められたように振り解く事はできない。
動悸がした。額に汗が滲んだ。電車の中でパニック発作をしたあの時と同じ感覚。
「私を受け入れないで見て見ぬふりをし続けることは出来ない。私はお前なのだから」
暗闇に落ちた。
もう苦しすぎるのでどうにでもなれと、それは飛び降り自殺をする気分だった。
赤と黒の井戸へ落ちると私は白く柔らかでほのかに暖かい世界に包まれた。
ひとつの死が、新しい生を産んだ。
そんな気がした。
ゴロゴロと喉が鳴るのが聞こえると私の顔にはたくさんの猫毛が付いていた。
茶トラの顔を覗くと先程とまったく変わらず、ただただ優しい顔をしていた。
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