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《夢儚散文29黄色い鸚哥》

「『悲しみは欲求から生まれる。恐怖は欲求から生まれる。欲求から解放された者に悲しみはない。恐怖も同じこと』、そんな仏陀の言葉を最近ネットの記事で見かけてね。人間の苦しみは欲求から生まれていると言うことを知ったの」

「え、そうなの?俺自身の今の苦しみの根源はすべて欲求だったのか⁉︎」

3日に一度は通っている近所のレトロな喫茶店檸檬。今日も息抜きでコーヒーでもと入ったら窓際の席に愛梨がいた。
愛梨は綺麗な長い黒髪で、横一直線でカットされている前髪はあの頃と一緒だった。細長い黒眼鏡と黒いスーツ姿は仕事着なのか、几帳面さのあるインテリ女の定形型な姿をしていた。切れ長美人は相変わらずだが、大学時代よりさらに近づき難い女になっている印象を感じた。
裕也は髪の毛ボサボサに無精髭で着古したジーンズ素材のYシャツにチノパンにサンダル姿とある意味正反対な格好をしていた。

「でもさ、欲求無くして現実世界で生きるの大変じゃない。俺なんて売れないイラストレーターやってるんだけどさ、売れて認められたい!お金欲しい!そしてモテたい!の強欲3拍子で毎日生きてるんだけどなぁ」
3年ぶりの再会で愛梨から少し緊張を感じていた裕也は砕けた空気を作るため冗談を交え、そう言ってコーヒーを一口飲んだ。
基本在宅ワークなのでリアルで人に会うことが少ないので、この喫茶店は人の空気に触れながら苦味の強いブレンドコーヒーで目を覚ますのが裕也の精神安定剤がわりとなっていた。

愛梨は眼鏡を人差し指で掛け直すと裕也を見つめた。
無表情さは相変わらずアンドロイド感溢れているけどやっぱ綺麗な顔してるなと裕也は心の中で思いながらコーヒーをもう一度啜った。

「私ね。欲求から解放されたいと最近思っているの。裕也くんとは真反対の方角へ人生の舵を切りたいの」
愛梨の瞳が少しだけ潤んでいるのが見えた。
意外な一面を見た気がして、もう少し彼女のことを知りたくなった。
「それって愛梨が、今、俺と一緒でさ、欲求で苦しんでいるってことと捉えていいのかな? なんかいつも落ち着いている感じだしさ、そんな気持ちなんてない人だと思っていたよ」

裕也はそう言うと持ち歩いているスケッチ用の小さなノートをポケットから取り出した。
紙を一枚丁寧に破ってボールペンで真ん中に人のカタチを描いて、その紙を愛梨の前に差し出した。
裕也はいつも自分の心に語るように言った。
「この人は愛梨自身ね。ここに思っていることを素直に紙に書き出してみなよ。絵でも文字でもいい。見える化するとスッキリするもんだよ。俺がね、この喫茶店でよくやっている方法だよ」

愛梨は紙と裕也の顔を交互に見つめた。
そして色の白い細い手で静かにボールペンを握ると左の手で紙を隠した。
「少し恥ずかしいから、煙草でも外で吸ってきて」
「そんな感情あるんだね。愛梨って人間ぽく無いなぁと思っていたんだけど、人間らしさが少し見えてきそう。それじゃ一服してくるね」
裕也は机の上に置いてあったハイライトの箱から一本煙草を抜いて喫茶店の外へ出た。

ガラス越しに愛梨の華奢な背中が見えた。
小さな紙に黙々と何かを書いている様子だった。横目で見つめながら煙草に火をつけた。

裕也は煙草の煙を見つめながら愛梨について大学時代に聞いたある噂を思い出した。
それは母親の再婚相手の男から性的虐待を受けていて小学生の時に事件になったとの内容だった。
当時、美人だけど無愛想な愛梨に嫉妬した同級生が作った噂話だと思っていた。
氷の女とか実は機械の体とか、社長令嬢とか、風俗で働いていて学費を稼いでいるなど様々な噂があったので、自分のことは語らないミステリアスな愛梨のひとつの噂として気にはしてはなかった。

文字や絵には隠しきれないものが現れる。
裕也は愛梨の心を少し覗いて見たいと煙草を吸いながら思っていた。
ガラス越しに振り向いて小さく手をこまねている愛梨が見えたので煙草を消して店内へ戻った。

「随分と書き込んでいた気がするんだけど、少しは気持ちの整理はついたかな?」
裕也は椅子に座り、冷めたコーヒーを一口飲んで愛梨の目を見た。
涙を流していたのか、目がほのかに赤くなっていることに気づいた。
愛梨は出来るだけ表情が変わらないように、落ち着いていることを装いながら語り始めた。
「なんかね。最近、自分自身を維持する事が難しくなってきているの。それが苦しくて。そんなことを思っていたら、さっき言った仏陀の言葉を見かけてね。欲求が自分にもあるからこんなにも苦しいのかなと思ったんだけど… 自分自身って分からないものだよね。なぜ苦しいのか分からないの。欲求を問いても分からないの」

裕也は手に隠している紙をちょんちょんと指差して言った。
「力になれるか分からないけど、描かれたものを見たら何かヒントがあるかも知れない。愛梨が大丈夫だったら見せてよ」
「え…裕也、私の人間性疑わない?」
「うん、大丈夫。俺さ、半年ぐらい前にメンタルヘルス系の本のイラストの仕事をして、心について勉強する機会があったんだ。それから自分自身のことを含めて色々知りたくなって本を読んだりネットで調べたりしてたんだ。俺、絵を描いているからさ、アートセラピー的アプローチとして始めたのが、今、愛梨にやってもらった方法なんだ」
裕也の言葉を聞くと、少し緊張が緩んだ表情を浮かべた愛梨は両手で隠していた紙をゆっくりと前に差し出した。

紙に描かれていた人のカタチには沢山のナイフが刺さっていた。人のカタチはグリグリと強い筆跡で黒く塗り潰されていた。
裕也は動揺を隠しながら、どう声をかけるのか考えを巡らせた。
黒く塗り潰されている人の中にある言葉が見えた。
「この言葉は誰への言葉かな」
なんて言って良いのか混乱した末に紡いだ裕也の問いかけに、愛梨はまたいつもの冷たい眼差しになって一言「あの男」と呟いた。
「あの男って?」
裕也は噂がひょっとしたら現実であったのかも知れないと思い、あえて踏み込んで聞いてみる事にした。
愛梨は眼鏡を人差し指で強く押さえると首を振って「それは言わない」と冷たく呟いた。

しばらく二人は黙って絵を見続けていた。
そして愛梨が伝票を優しく取り上げて言った。
「そろそろ行かなくっちゃ。少しね。心が軽くなった気がする。裕也ありがとね」

その日の夜、裕也は夢を見た。
大雨が降っている駅前にずぶ濡れの女が傘を差さずに立っていた。
「どうしたの?」と声をかけると女は静かに泣いていた。見知らぬ女だったがどことなく愛梨に似ていた気がする。
ずぶ濡れだったので家に連れて帰り、自分の服を着させてあげた。
女は何も言わずに静かに泣き続けているので、抱きしめてあげて一緒に泣いた。
随分と華奢な体をしていたのを覚えている。
女は泣きながら体が小さくなっていった。
姿が見えなくなると、手のひらに壊れそうに脆い小さな黄色い鸚哥が死んでいることに気づいた。
それを見てさらに悲しくなって大きな声で泣いた。

朝起きて愛梨の書いたあの言葉を思い出した。
「死」は欲求からの解放の意味もある気がした。

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