戻りたいくらい好きだった場所の話。
「戻りたい」という人は
時間を超えて思い出に戻りたいのか
距離を越えてその場所に戻りたいのか
はたまた戻りたいではなく戻したいのか
どれなんでしょう。
何も超越できない凡人の私なので未来に期待しつつ、忘れてしまう自分のために書き残しておく、ある大事な場所の思い出話です。※not 小説
オレンジ色の三角屋根、茶色い外壁の2階建て。
いかにもレトロっていわれるような深い焦げ茶色の床板はいつもお日様の光を柔らかく受け止める。
1階には誰も弾かないピアノ、窓際席、瓶詰めされたアイスコーヒーや珈琲羊羹たち。
甘いふんわりした香りがいつも漂うケーキ工房、そして珈琲豆がずらりと並んだカウンター。
そして2階の喫茶店。
そこが大学生だった私の3年間の居場所だった。
大学2年の春ごろ。
学部やサークルでも友だちができ課題にも慣れ、1年かけてやっと大学たるものがわかってきた私は、新しいアルバイト先を探していた。
その前に半年ほど働いていたのは個人経営の居酒屋さん。
募集のページに掲載されていた料理の写真の引力が凄まじく、すぐさま応募した記憶がある。
料理にこだわりをもったお店だった。板長、女将さん、その下で修行していた料理人のみなさん。
いつも期待以上にボリュームのあるまかないを振る舞ってくれ、そのどれもが美味しく幸せな日々だった。
人情味あふれるお店で毎日笑顔で働かせていただいていた大学1年目の私だったが
大学が実家のすぐ近くにあった私はもちろん実家暮らしで、家には心配性の両親がいた。
居酒屋というとやはり帰りが遅くなるから、と毎日のように険しい顔の両親に言われ続けた私は疲れてしまい
優しい人たちと美味しいまかないに後ろ髪をひかれながらも卒業させていただいたのでした。
そして大学2年の春。
家の近くってどこがあるの~とあまり期待せずに検索をかけてみるとその喫茶店の名前がヒットする。
家から近い。ここか。自転車で10分くらい。
外観写真を見てみる。とても可愛い。
メニュー写真を見てみる。とても美味しそう。
こんな喫茶店あったっけ。
小さい頃から数え切れないくらい通り過ぎているはずの道にあった喫茶店は
それまでの人生で喫茶店に行くことがなかった私にとっては、ただの風景の1つだったらしい。
なぜなら、私はコーヒーが飲めなかった。
今でこそ珈琲をこよなく愛する私だが当時は苦手意識の固まりだった。
1度大学の先輩が連れて行ってくれた、フードメニューが爆盛りで有名な喫茶店で飲んでみた珈琲が、信じられないくらい美味しくなかったのである。
酸味が強いという言葉だけで片づけられないくらい酸っぱく、えぐさが強烈だった。
今冷静になって考えるときっと単純にハズレのお店だったのだろう。
爆盛りが売りの喫茶店。
珈琲にはさほどこだわっていなかったのかもしれない。
何気なく出されたであろう、ただ1杯の珈琲。
ただその一杯は、「珈琲」というものに期待に胸を膨らませた大学生が、その後全く珈琲と名のつくものを飲まなくなるには十分すぎる理由となった。
画面と睨めっこする。
他の求人も一通りチェックする。
やっぱり、すごく近い。
ケーキもすごく美味しそう。
それになんか、喫茶店ってかっこいい。
珈琲を飲む気は全くなかった。
今思い返しても何を考えているんだと思う。
正直に言えば大丈夫な気がしていた。
なぜ。
話せばわかる精神。
5.15事件か。
当時の自分すごい。
すぐに電話して、数日後に面接にきてくださいという旨のことを言われた。
そこらへんのことは正直あまり覚えていないけれど、どきどきしながらできるだけ落ち着いた格好を選んでいざ当日面接へ。
入り口の両開きの扉には"OPEN"の札がかけられ、
その後ろの自動扉が開くと小さくぴんぽんとメロディーが聞こえた。
若めのすこし神経質そうなお兄さんが階段をダダダと降りてきていらっしゃいませと出迎えてくれる。
面接に参りました白米ですと頭を下げるとああ面接の人ねと1階の窓際のテーブルに通された。
大きな窓に囲まれていてサンルームみたいだ。
日差しがぽかぽかあったかい。
珈琲は嫌いだけど、珈琲のにおいは大好きだ。
きょろきょろしていると先ほどのお兄さんがお冷やを持ってきてくれた。店長さんらしい。
今お客さん全然いないから、と私の目の前にお冷やを出すと向かいの席に座った。
簡単な履歴書を渡し質問に移っていく。
「前はどんなバイトしていたの」
「大学ではサークルとか入っているの」
「どうしてここに応募してきたの」
スタンダードな質問が並び、なんとかこんとか答えていく。
面接に慣れていない女子大生Aとしては目の前に大人が座ってしっかりこちらを見据えているという事実だけでじんわり手に汗をかいてしまう。
審査されるのって、居心地が悪いんだなあ。
「珈琲は好きなの」
とうとうきた。
やっぱり聞かれますよね。
だって珈琲屋さんですもんここは。
顔はにこやかに、テーブルの下の両手の平はさらにじんわりする。
「実は、珈琲苦手です」
「よくきたねここの面接」
的確なつっこみをいただいたところで手汗はピーク。顔はにこにこ頑張っている。
でも嘘は良くないんですもん。
正直でいなければ。
ここで引いてはいけない。
私の第六感がそう告げている。(チープ)
実は珈琲が美味しいと思ったことがありません、とかくかくしかじか。
ふんふんと聞いている店長さん。
「~ので珈琲は飲めないんですが頑張りたいと思います」
なんだその理由。
そんなわがままが通ると思っているのか若人よ!
と、今の私ならきっとそう思うかもしれない。
ここは珈琲屋ですぞ。
なるほどね、話はわかったと大きく頷いた店長。
さあどちらに転ぶか。膝をぎゅっと握る白米。
「じゃあまずうちの珈琲を飲んでもらおうか」
「??」
この人は今の私の話を聞いていたのだろうか。
失礼だとは思いながらも自分がいかに珈琲が苦手か熱い思いを打ちあけたというのに。
苦手だと言っている私に珈琲を飲ませると。
「はい、飲んでみます」
ああ嫌だなんて言えない。
だってそれこそ失礼だ。
出されたものは飲むべきだ。
2階にダダダっと走っていく店長。
残される私は細い目で外を走る車をただただ眺める。ああ、空が青いなあ
5分ほどたっただろうか。
「お待たせいたしました」
お待ちしておりませんがそんなことは口が裂けても言えない。
にっこり微笑んで白いカップの中に注がれた黒い液体を眺めた。
ああ良い匂い。
珈琲のこの香りは、本当に好きなのに。
ちらっと店長を見ると不敵な笑みを浮かべてこちらをじっと眺めている。
これぞまさに年貢の納め時。
ちょっと冷たくなった手先でカップを握り、震える手で口元に運ぶ。
そのまま口にカップの縁をつけると目をつむったままくいっと口内に珈琲を流し込んだ。
「おいしい」
自分でもびっくりするくらい語彙力がなかった。
でもその言葉しか出てこないくらい驚いていた。
だって、珈琲がおいしい。
えっ珈琲が美味しい。
そうでしょうと神経質そうな店長は満足そうに笑って
「これが珈琲ですよ」
と決め顔で言った。
「さて、いつからシフトにはいれますか?」
これが私と珈琲との出会い。
私とその喫茶店との出会いだった。
つづく
※白米の思い出を綴った備忘録です
こんな私ごとをここまで読んでいただきましてありがとうございます
私の体重が増えます。