2021のはなし
2021という並びに慣れないまま2021年がおわる。今年のテーマは「頑張るしかない」だったけど、本当にそう思うことが多くて、終われ終われと唱えながら物事を進める日もあった。
そんな気持ちすらも12月の頭に切れて、ガス欠のままここ3週間くらい過ごしていた。元気がないときはだいたい大学2年から4年のゼミでの日々を思い出す。シャンソンを聴いて、学期末には喫茶店でみんなでお茶をした。そんな時間があったことが4年後のわたしを救っている。
未だに社会人学生をしていることに後ろめたさを感じる。誤魔化すようにアルバイトのシフトをたくさん入れてしまう。逃げるように会社を辞めて選んだ道だと思うことがあるから。
でも最近は夢を叶える過程かもしれないと考えるようになってきた。これが夢なのか正直わからないけど、なりたい職業が何もなくて、中学生の頃の将来の夢が「孤独死しない」だったことに比べれば大きな変化だと思う。
学校にいくのが辛いと25歳を過ぎて自分で学費も払ってるのに思うと思わなかったけど、通学中にご機嫌にお散歩してる柴犬を見たら割と気持ちもどうにかなったりする。
「わたし雨女だなぁ」と呟くと、「でも今日も楽しいからいいじゃん」と言ってくれる友達もいる。
2021という数字に意味はないけど、過ごしてきた日々にはあらゆる感情があった。
今年は久しぶりに推しのアイドルができた。こんなにも未来が明るい人を応援するのがはじめてで、どんどん欲深くなっていくことも幸せに感じる。月額440円のメールサービスでわたしの感情は日々揺れ動いた。
最近よく思い出す大学の同級生がいる。彼女の書いた小説に描写された、花瓶に飾られたスイセンの花のことが忘れられない。スイセンはわたしにとって土手とかその辺りに生えてる花で花瓶にわざわざ飾ることなんてなかった。そのことが衝撃的で思わず彼女に伝えたときの困った笑顔も合わせて記憶に残っている。
たぶん推しに対して覚える気持ちと、このときの衝撃が近いものなんだと思う。わたしにとって何ともないものが彼にとっては宝物だったりする。
推しである髙塚大夢くんが幸せである世界のためにわたしができるのは人に優しくすることだと思って近頃は過ごしている。
2022年は終われと願って過ごす日が増えるかもしれない。でも自分がどうにかすればいいことはやるしかない、とにかく人に優しくしたい。