それでも進む日常
新型コロナウイルスで緊急事態宣言が発令されてしばらくした頃、一度だけCOCOAから「濃厚接触者になった」という通知が届いた。
どこで接触したかは分からないが、指定された窓口に電話をすると、保健所での検査が必要だと言われた。
在宅ワークで運動不足を感じていたこともあり、自転車で保健所へ向かうことにした。季節は秋の入り口、まだ暑さは残っていたが、夏のピークは過ぎていた。
自転車を漕ぎ出すと、風が心地よい。川沿いの道を進んでいくと、マスクをした子供たちの笑い声や、ベンチに座って談笑する老人たちの姿が見えてきた。非常時でも、彼らは日常を営んでいる。それはどこか非現実的でありながら、同時に現実的な光景でもあった。世界が危機に陥っていても、私たちは生き続け、笑い、互いに触れ合うことを求めるのだと、その瞬間に実感した。
川の反対側には古びた水門があった。鉄骨がむき出しになり、所々に錆が浮いている。長い年月を静かに耐え抜いてきたその姿は、まるで時代に取り残された遺物のようだった。人間の世界がどれだけ騒々しくても、この水門には何の関係もないのだろう。人為的なものも自然の中で風化し、時の流れに逆らわず消えゆく。人の営みが一時的で、自然や時間がそれを超越していることを感じずにはいられなかった。
保健所に到着すると、異様な光景が広がっていた。人々は外で数メートルの間隔を保ちながら、無言で順番を待っている。コロナ前には想像もできなかった光景だ。一歩一歩、距離を保ちながら進む。自分の番がやってくると、防護服をまとった医療関係者が近づき、金属の棒を鼻に差し込む。思わず顔をしかめた。想像以上の痛みが走り、鼻の奥に強烈な異物感が残る。痛みは短時間で去ったが、妙な不快感が心に残った。
検査の結果が出るまでの数日間は、心の片隅に漠然とした不安が居座っていた。結果が出た時、私は陰性だったと知った。しかし、陰性の知らせを受けても、そこに大きな喜びや安心は感じなかった。むしろ、どこか虚しさが漂っていた。非常時でも、私たちはただ生きるしかなかったのだ。
川沿いで見た子供たちの笑顔や古びた水門が、ふと心に浮かぶ。あの瞬間、人はどれほどの危機に直面しても、それでも笑い、自然や時間の流れはそのすべてを静かに受け入れていくのだと、私は感じた。
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