見出し画像

家出

 感情がないまぜになり、耳から入ってくる全ての言葉が記号のように聞こえ始めた。心の器が今にもピシリと音を立てて割れそうだった。「大掃除の残りのごみを捨ててくる」と言い残し、元旦に部屋着のまま飛び出した。堪えきれなくなり、全てを打ち捨てて家出をしたのだ。

 意識を懸命に手繰り寄せた。相当の心理的打撃を負っていることが分かる。頭に靄がかかり、考えることを拒否している。何故か目も上手く開けられない。ガラスに映った自分の顔はまるで眠っているか、蝋人形のようだ。その瞳の奥の表情は見たことがある。恐怖に憔悴し、脳内の思考が霧散している顔だ。シナプスの接続が全て切れて、世界を知覚することを拒否している。感情と表情筋の相互通信も途絶えてしまった。

 命からがら最寄りの駅まで行き着く。しかし向かう先は無く、考えることもできない。何も考えず電車に乗る。終点は山奥のようだ。寒さや野生生物に襲われて死にたくはないと思ったのだろうか、次の駅で電車を降りていた。しかし頭は働いていないので、何度も間違えて同じ行き先の電車に乗ってしまった。私は何処かに向かえるのだろうか。何処へ辿り着くのだろうか。

 暫くすると、国内有数のハブ駅に到着した。朦朧と正月休みを堪能する人々を眺めながら、乗り換える。道中、部屋着で来てしまったことを思い出し、少し恥ずかしくなった。しかし斜めの老人も似た格好をしていたので、親近感が湧いた。

「あの、あなたも家出ですか?」
「そうです。奇遇ですね。」

 思い付きの会話を、頭の中で繰り広げる。老人がこちらを見て微笑んだような気がした。いや、単に空を見ていたのかもしれない。

 無意識の内に別のホームと続く階段を上がると、冷たい風が頬を撫でた。どこからか子供たちの笑い声が聞こえ、正月飾りの明かりがちらつく。老人の姿はいつの間にか消えていた。

いいなと思ったら応援しよう!