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眠りの木曜

 昔から朝が苦手だった。目覚まし時計が鳴るたび、布団の中のぬくもりに抗えず、「あと5分だけ」と自分に言い聞かせるのが日課だった。

 しかし、木曜日の朝だけは少し複雑な事情があった。1時間目と2時間目が連続で体育の授業だったからだ。その授業は特に好きだった。人数が少なく、先生の指導が丁寧な中で白熱する試合は、私にとって唯一楽しみな時間だった。

 特に忘れられないのは、先生の「お前、意外と才能あるな」という言葉だ。運動が得意ではない私にとって、それは特別な褒め言葉だった。しかし、それと同時に、「俺はサボりは嫌いだな」という一言が重くのしかかっていた。木曜日の体育を欠席することは、サボりと思われる恐れと直結していたからだ。だから、理由が無ければ休むはずがなかった。

 それでも、木曜日の朝は布団から出られない日が多かった。そのもう1つの理由は、前日の夜の議論だった。友達と水曜の放課後に集まり、経済や科学、宇宙の謎について話し合う時間は、私にとって知的な冒険だった。友達が披露する本やニュースの話題に触発され、次々と意見が交わされる中で、時間を忘れるほど熱中した。帰宅後に急いで宿題を片付け、布団に入るころには日付を過ぎ、朝が近かった。

 その木曜日の朝も、目覚まし時計が鳴った。「あと5分だけ…」そう思いながら目を閉じたが、時計を見ると授業開始の10分前だった。布団から飛び出せば2時間目にはギリギリ間に合うかもしれない。しかし、「遅刻していくくらいなら、欠席のほうがマシだ」と思い、体が布団に沈むのを感じた。先生に「やる気がない」と思われる恐怖が、私の行動を縛っていた。

 体育を休んだ日の後悔は、布団の中でいつも押し寄せた。「サボりと思われても行けばよかった…」そう自分を責めるのに、それでも結局眠気と恐怖に負ける自分がいた。

 ギリギリの出席日数で卒業できたものの、木曜日の朝の記憶は今も鮮明だ。布団のぬくもりと、先生の言葉への恐怖、そして自分への葛藤。時折、夢に見る。時計の針が進む音を聞きながら布団から出られない自分。そして留年を告げられる恐怖。その夢から覚め、「夢でよかった」と胸を撫で下ろす朝があるたび、あの頃の自分を思い出す。

 もしあの自分に声をかけられるなら、こう言いたい。「誤解されてもいい。分かってもらえなくてもいい。授業に出て、先生に自分の思いを話しなさい」と。怠けたかったのではなく、議論に熱中した結果であることを、きちんと伝えればよかったのだ。先生はきっと聞いてくれる。理解されなかったとしても、話すことで気持ちは切り替えられたはずだ。

 けれども、当時の私はそれができなかった。だからこそ、布団に沈んだ朝の重さと後悔は、今も心の奥に残っている。そして、もうあの頃には戻れないと知るからこそ、大人になった今、私にできるのは「どう思われようと本心を言うべき時がある」ということを心に刻むだけだ。

 ただ、朝起きること、本心を言うこと、今も苦手だ。でも、それでいい。それが面白い。

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