踏み切り
(踏み切りの音)
ずいぶんと大げさに鳴っているけれど、線路の先に見える電車はまだ遠く、小さい。
いけるかな、でもやめといたほうがいいかな、なんて考えている私の横を、自転車に乗った高校生が勢い良く走り去っていく。
ああ、もう遅いか。
黄色と黒のレバーがゆっくりと下がる。
目の前を過ぎ去る電車を眺めながら、私はぼんやりと昨夜のことを思い出していた。
「あのね、私カナダに行くの」
久々に会う陽菜の口から聞く報告に、私は思いっきり動揺した。
「え?カナダ…のどこ?」
動揺を悟られたくなくてとっさにした質問が、逆にわざとらしい。
カナダの街の名前なんて言われたって、どこだか分かりはしないのだ。
「カルガリーってとこ」
「へえ…。どれくらい?」
「とりあえず、1年かな」
「とりあえずって?」
「う~ん、気に入ったらあっちで就職先を探してもいいかなって」
陽菜とは家が隣で小中高が同じだったこともあってよく遊んでいたけれど、陽菜が東京の私大に通うようになってからは少し疎遠になっていた。
勉強もスポーツも人付き合いも人並み以上にうまくこなすタイプだった私は、周囲から「しっかりしてるね」とか「なんでもできるね」と言われることが多かった。陽菜はどちらかというとおとなしくて、いつもそんな私の陰に隠れていた。加奈ちゃん、加奈ちゃんと私の後ろをついて回る陽菜のことを、同い年だけど妹のように思っていた。
だから陽菜が海外に行くと聞いて、私は意外というより、少し裏切られたような気持ちになった。
「陽菜、英語とか話せたっけ?」
「うーん…そのへんは、行ってからかなあ」
「行ってからって…陽菜、本当に大丈夫?」
あはは、と陽菜が眉を下げて笑う。
「私、加奈ちゃんみたいにしっかりしてないし、ビビりだし、でも今回は思い切ってみようかなって」
「そっか…まあいいんじゃない」
「あっちいってもLINEするね」
「うん、まあ私も就活で忙しいからあんまり返事できないかもしれないけど」
別に就活がはじまったって陽菜からのLINEを返す暇くらいある。でも、私も忙しいんだと主張しないと、なんだか負けているような気がして、ついそんなことを言ってしまう。
「そっか、就活かあ」
「そうそう、私マスコミ関係行きたくて。でもテレビ局とか、倍率高いからさあ」
「そうなんだ。あの、加奈ちゃんは…」
「え?」
「加奈ちゃんは…その、行かないの…?」
顔がカッと熱くなる。
「大学行ったら留学したいって言ってたよね」
「あー、私そんなこと言ってたっけ。忘れてたよ」
(踏み切りの音)
「まあそのときはそう思ってたんだろうね。でも、今どき日本で勉強できないことなんてないし。わざわざ言葉通じないところ行って勉強するのも逆に効率悪いかなって。大体、ウチらもう大学3年よ?就活とか考えると、今行くのはタイミング的にね」
わかったふうな言い訳がすらすらと出てくる口は、自分のじゃないみたいだ。
「それに目的もなく、自分を変えたい、みたいな動機でいっても意味が薄いような気がしちゃってさ。あ、別に行くことを否定するわけじゃないけど」
「そっか…」
陽菜は何か言いたそうだったけれど、やっぱり加奈ちゃんはしっかりしてるね、と言って、そのまま黙ってしまった。
「しっかりしてるね」
「なんでもできるね」
小さいころから周囲からかけられ続けたそんな言葉たちは、いつからか私にとって「失敗しちゃいけない」「笑われたくない」という呪いにかわっていた。留学だって、本当はずっとしたいと思っていたのに、踏み切れないまま大学3年の就活の時期を迎えてしまっていたのだった。
(踏み切りの音)
私は他の人みたいに、準備ができていないのに一か八かで飛び出したりしない。つまずいたりしない。転んで笑いものになったりしない。そんなことをずっと自分に言い聞かせてきた。
(踏み切りの音)
でも、この歳になると薄々わかってくる。そんなことを考えている自分が一番恥ずかしいやつなんだって。
(踏み切りの音)
それどころか変なプライドで、陽菜に「すごいね、がんばってね」の一言も言えないなんて、今の私は。
「じゃあ、加奈ちゃん、私そろそろ帰るね」
「あぁ、うん」
今の私は、すごく惨めだ。
ふっと踏み切りの音が止んだ。昨日の夜に飛んでいっていた私の魂が、急に踏み切りの前に引き戻される。
レバーが上がり、待っていた人たちの波が一斉に動き出す。
私だけが歩き出せず、しばらくその場に突っ立っていた。
「私ね、加奈ちゃんみたいになりたいって、ずっと思ってたんだよ」
陽菜が昨日、去り際にぽつりと言った言葉を思い出す。
私はポケットからスマートフォンを取りだし、陽菜の連絡先を探した。
陽菜はすぐに出た。
「加奈ちゃん?どうしたの?」
「あのさ、陽菜…」
さっき通りすぎた電車は、もうずいぶんと遠くに、小さくなっていた。
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