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【小説】 トランジット 第1話

「皆さんのためを思って言っているんですよ」

ああ、言うと思った。
あまりにも予想通りの言葉に、むず痒さと可笑しさがこみあげ、口の端が不自然に歪む。今、自分がしているであろう意地悪な顔が想像できてしまって、あわてて口角を下げる。
こういう時は、いかにも反省しています、という顔をしなくてはならない。

いつまでも学生気分では、云々。社会人としての自覚が、云々。この金子というベテラン社員が話し始めてからずいぶん経つけれど、彼女の口から出る言葉はどれも、どこかで聞いたことのあるような言い回しばかりだった。定型文のお説教というのは、説教をしている側も何かを伝えたくて言葉を発しているわけではないのだろうと思う。言葉の内容にはあまり意味はなくて、この重苦しくて不快な時間自体が「罰」として意味を持つのだ。

等間隔に並べられた机と椅子の他に何もない清潔な研修室で、定型的な言葉が空中に向かって放たれ続けている。皆さんのためを思って、という言葉が少し浮いて聞こえたのは、それがあまりにも「それらし」すぎたせいかもしれない。

ふと、隣に座るハルの顔を盗み見る。目が半開きで、小さな鼻がひくひくと震えている。笑いをこらえているのだろう。

等間隔に座らされた他の同期たちも、皆僕と同じように神妙な顔を作ってはいるけれど、「酔ってフェンスをよじ登って女子寮に侵入したやつがいる」という理由で50人以上の成人男女が数十分にわたって説教されているというこの状況を、誰もがバカバカしいと思っているはずだ。

笑いを何とか抑えたハルが、ふうぅと鼻で長い息をはく。もう一度、横目でちらりとハルの顔を見る。ショートカットの黒髪、黒目の大きい瞳、同期の中でもひときわ小さな身体。こうして黙っていれば、ハルは本当に子供みたいだ。

視線に気づいたハルがちらりとこちらを見て、口の端を意地悪に歪ませて笑う。心底くだらねえって顔だ。一か月の研修も終わりに差し掛かり、同期のキャラクターも大体わかってきたけれど、安定志向でおとなしい若者が多い大手金融機関の新入社員の中で、ハルは最初から少し浮いた存在だった。

研修の初日、僕の隣に座ったハルの右耳には小さなスタッドピアスが光っていた。え、それピアス?と少し驚く僕にハルは、
「うん、かわいいでしょ」と笑った。
そのあと、あのベテランに見つかって咎められていたけれど、
「でも先輩方も結構つけてますよね?3年目ならいいんですか?」とかなんとか言い返して引き下がらなかった。それ以来、ベテランにずっと目を付けられているけれど、ハルの耳には今も小さなピアスが光っている。研修のグループワークでも遠慮せずにぴしりと意見を言うものだから、同じグループの男性陣はなんだかおとなしくなってしまって、完全にハルが主導権を握っていた。少女のような可愛らしい見た目とは裏腹に我の強いハルとは、相性の悪い同期も何人かいるけれど、皆彼女にはどこか一目置いているようなところがある。

「今回のことは本当に残念でしたが、皆さん今後は社会人としての自覚を持って行動してもらい、二度と同じようなことのないようお願いします」

最後まで完璧な定型文のまま、長いお説教が締めくくられた。出ていったベテラン女性社員のヒールの音が遠ざかっていくにつれて、研修室は解放された新入社員たちの明るい声で満たされる。

「あなたのためを思って、って言葉が相手のために発せられたことって人類史上一度もないよね」
ハルが呆れたようにつぶやく。

「人類史にはそんなに詳しくないけど、まあそうかもね。あなたのためってわざわざ言うこと自体が自分のためでしかないよね」

「そうそう、あれを言えちゃう人って自分が使う言葉に無自覚な感じがして、無理」

あの女性社員だって役割で言っているだけなのだからかわいそうな気もするが、ハルが言いたいことはよく分かる。無自覚だからなのか、あえて鈍感になっているのかはわからないけれど、この新入社員研修で発せられる言葉は、意味よりも、形式が「それらしいかどうか」ということの方が大事なようだった。その人自身ではなくて役割がしゃべっているような言葉が、誰に向けてということもなく、空中に向けて放たれる。そんな時間がずっと続いていることに、僕もややうんざりしていた。

とはいえ、求められる役割通りにしゃべっているのは僕も同じだった。新入社員の自己紹介では前の人にならい、出身大学と休日にしていることと、おもしろくもない抱負を述べた。誰もが同じフォーマットで話をするのを、皆が安心して眺めていた。

形式どおりの自己紹介をしなかったのは、ハルと大津恭平の二人だけだった。

ハルは出身大学も休日にしていることも、つまらない抱負も述べず、
「椎名春です。世界で一番好きなものは打ち上げ花火です」とだけ言って自己紹介を終えた。
え、終わり?という空気が流れたけれど、ハルは気にする様子もなく、隣の同期に「次、あなただよ」というように目で合図をしていた。

大津はハルとは逆の意味で目立っていた。
「大津恭平です!旅が好きで、大学時代はほとんど大学に行かないでバックパッカーをしてました!」と始めて、旅先でのエピソードを披露し出し、大津くん、そろそろこの辺で、と研修担当の社員に止められるまで話し続けていた。

大津も、ハルとはタイプが違うけれど、周囲から浮いた存在だった。黒く焼けた肌とがっちりとした大きな身体は、金融機関の職員と言うより、漁師とか大工と言われた方がしっくりくる。ハルが自然体で浮いてしまうのに対して、大津は目立つのが好きなやつ、という感じで、同期の飲み会でもよくバックパッカー時代の武勇伝を語っていた。特にインドでスリに遭ってヒッチハイクで次の街まで行った時のエピソードは鉄板で、3回ほど聞いた気がする。大津は周囲からの変わったやつ、破天荒なやつ、というキャラ付けを自分でも気に入っていて、進んで演じているようにも見えた。
そして、先ほどまで僕たちが無為な数十分間を過ごさなければならなかったのも、この大津が女子寮のフェンスをよじ登ったせいだった。

「おーい椎名、高木、飯いこ」
悪びれる様子もなく、大津が声をかけてくる。
「え、なんか自分のせいで申し訳ないとかそういう気持ちは全然ないわけ?」
「いや、それはすまん。でも全員集めるのはあっちがバカなだけじゃん。別に俺だけに説教すればいい話じゃない?」

外見は周囲よりも少し大人びて見えるのに、大津の言葉はなんだか幼い。大津にとって、研修をしている社員達はまだ自分とは違う「大人」で「あっち側」なのだ。

僕は大津を諭すのをあきらめて席を立った。

大津はなぜだか僕とハルによくなついている。ハルは、はじめ大津のことを鬱陶しがっていたけれど、他の同期といるよりは気を使わなくて良いのでラク、という理由で最近は3人で昼食を取ることが多かった。そして僕も、この変わり者ふたりと居る自分が嫌いではなかった。

「あたし、今日弁当」
ハルがネイビーのポーチを見せる。
「おう、そっか。じゃあ俺らもコンビニで買ってくるわ」
僕と大津が本社ビルの地下にあるコンビニで弁当を買って研修室に戻ってくると、もうハルは先に食べ始めていた。

席につくと、大津がそういえばこれ、と今朝返された適性検査の結果シートをファイルから取り出した。
「なんか俺らしい形っていうかさあ」
大津は「革新性」のところがやたら尖ったレーダーチャートを見せびらかしながら、これは開拓者のグラフだわ、とかなんとかいい加減な自己評価をし始めた。大津の少し得意げな顔がなんだか腹立たしい。

僕とハルは大津の話を肯定も否定もせず適当に相槌を返していた。
「椎名のも見せてよ」
ひとしきり自己評価が終わった大津がしつこくせがむと、ハルはめんどくさそうに「ん」と結果シートを突き出した。
「あっは、椎名のグラフもすごい形」
大津の言う通り、ハルの適正検査のレーダーチャートは、見たことのない形をしていた。
「どう答えたらこんな極端な形になるんだよ」
と僕が少し呆れて聞くと、ハルは少し考えてから、
「うーん、両端にしかマークしてないからかな。『どちらともいえない』なんて何も答えてないのと一緒じゃない?」
と答えた。

ふと、自分の適性検査の結果に目を落とす。凹凸に乏しく、大きくも小さくもないきれいな五角形に近いレーダーチャート。こういう類のテストに回答する時、僕は必ず「どちらともいえない」が一番多くなってしまう。だって本当にどちらともいえないのだ。
だけどハルの理屈では、僕は半分くらいの質問には何も答えていないということになるのだろう。その妥協と優柔不断の結晶みたいな形がなんだか恥ずかしくなってとっさに隠す。

『感情をすぐに顔に出してしまう方ですか?』
『気が変わりやすく、移り気な方ですか?』
『自分はよく気が利く方だと思いますか?』

そういう時もあればそうじゃない時もあるのが人間だし、そもそも基準が分からない。世間一般と比較してどうかなんて、どう測ればいいのだろう。正直に答えたら「どちらともいえない」が一番多くなるに決まっている、と思う。でも正直に答えると、凸凹のない形になってしまう。強いて言えば、状況に流されてどういうふうにも振る舞う、というのが僕の特徴なのかもしれない。「高木のも」と言われる前に昼休みが終わったことに秘かにほっとしている自分がなんだか情けなかった。
                     
               *

研修の最終日、同期の多くは別れを惜しんで遅い時間まで飲んでいたけど、ハルは一次会が終わると「じゃ」といって一人でさっさと帰ってしまった。「そっけねえなあ」とぶうたれる大津は少し寂しそうだった。

新入社員研修が終わってからは二人と顔を会わせる機会は減ったけれど、メッセージでのやりとりはぽつりぽつりと続いていた。大津が企画して、たまに3人で旅行に出かけることもあった。仕事の話はあまりしなかったけれど、二人とも支店で結構うまくやっているようだった。ハルも大津も、変わり者ではあるが、要領が悪いタイプではないのだろう。

僕も可もなく不可もなくという評価を受けながら、それなりに働いていたけれど、貴重な20代が着々と過ぎていくことに少しずつ焦りを覚え始めていた。このまま定年まで勤めるのは嫌だと思いつつ、かといって転職する踏ん切りもつかず、宙ぶらりんなままとりあえず日々をやり過ごしていた。

ハルから、「会社を辞めて台湾に行く」というメッセージが届いたのは、そんな3年目の春のことだった。


続く

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