私と限界
最近、私は自分自身の限界について思いを馳せることが増えた。よく自己啓発や漫画だと「自分に限界を作るな」と説かれている。が、私は敢えて自分に限界を設定してみようと思っている。しかし、私の思う限界と皆さんが思う限界とでは違う風に捉えているかもしれないのでご容赦してほしい。
なぜ限界を設けるのか?
ひとつには、ブレーキを踏むため。
ひとつには、人生設計を見直すため。
些細なことだが私はやりすぎて自分を害することが多かった。その予防のためには自分の限界値を知り、自分の体の状態を観察することが重要だと考えた。やれることは随分と制限されるが、自分を守るためには仕方がないと割り切るしかない。それがブレーキになる。
当然、やれることが限られてくれば、人生設計も変わってくる。
私はこんなにも働けないとは思っていなかった。自分で言うのもなんだが働く知力はある。しかし、それを発揮する土台となる体力がない。当然、熾烈な競争になれば負ける。私はIT技術者として働いているが、技術は磨いていかなければ取り残されるだろう。しかし、磨いていくという気力もなくなった。
地道に経営の勉強は続けているが、勉強を重ねるだけでは頭でっかちになるだけだろう。
人格というものに光を求めたが、古典に書いてあるのは強い人の理論のような気がしている。
弱者は救済されるのを待つことだけしかできないのか?
身分相応という言葉が古典にはある。
その人の身の丈に合った生き方をというような言葉である。
今の社会でこの言葉を言うと反発がありそうであるが。
私も反発してみたい。
社会的に守られる立場であっても社会貢献がしたい。この世に生まれてきた証を刻みたい。
私は私の身の丈を設定できない。
こんなところで立ち止まってたまるか、という心の声に蓋をして「ここが限界」と静かに言い聞かせるしか手段がない。
この記事を書いていて思ったが、私はまだ諦めたくないようだ。心の奥底に眠る熱い志の炎がまだくすぶっている。
生きていくのは難しい。それに活かしていくのも難しい。
解けない問題へひたすらに立ち向かっていく。
だからこその限界なのかもしれない。
苦悶しているかのように書いたが、実際は落ち着いている。限界を設定して無理に理想を追い求めない姿勢が身体への負担を軽減したのだ。
労働の限界。
知能の限界。
職能の限界。
体力の限界。
活動範囲の限界。
現実に即した限界を設定することで、違う可能性が見出せたらいいなと思っている。
これがダメならあれ。
ニの手、三の手を考えれるようになりたい。
柔軟かつ迅速に生き抜いていきたい。
限界の設定は積極的な意思決定の結果である。
限られたリソースをどこに投入するか?
その判断が他の人との差別化に繋がる。
もしかしたら、
気づいたら自分が設定した限界を突破していた。
そんなことが起る将来を期待しつつ日々精進していきたい。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
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