夢と私
I have a dream.
言わずと知れたキング牧師の演説。日本語にすると「私には夢がある。」
特に社会問題に関心がある訳ではないが、この言葉は好きである。ふとした時に頭の中に『I have a dream.』と聴こえてくるぐらいには好きである。
詳しくは知らないが、まだ見ぬ将来に向けて希望を胸に放たれた言葉はシンプルながら力強く感じる。
私は「夢」という言葉にそこそこ思い入れがある。
中学生の時、なにかの作品に選んだ言葉は「夢」であった。
高校時代、友人が「夢なんて好きじゃない。夢は叶わないから。」というような事を言ったとき、ひどく反発心を抱いたのを覚えている。
大学時代、環境問題にインパクトを与えるような画期的な研究を材料開発の観点から実現したいと夢見ていた。
就職に失敗したとき、研究者になりたいと夢見ていた。
社会復帰したとき、起業して経営者になりたいと夢見ていた。
社会人6年目、結婚を夢見て婚活をしてみる。
私は夢追い人なのだ。
大学以降は夢に向かって行動をしてきた。
しかし、どの夢も叶っていない。
それでも私は満足している。
社会は結果が全てかもしれない。だから、結果を出せていない私は評価するに値しない人間なのかもしれない。
それでも私は私自身を認めている。たとえ社会から認められなくても。夢へと向かって突き進んだのだから。
確かに夢は叶えたい。しかし、人には人の生き様というものがある。
生き様というはプロセスのことを言う。
そのプロセスが人の個性だと思うし、アイデンティティだと思う。人生に刻みつけられた生き様が形作るアイデンティティは簡単には表現できないが簡単には崩れない。
私は私なりのアイデンティティを手に入れたのだ。そしてまた、これからも創り上げていく。
たとえ、夢を叶えられなくとも夢へと向かっていったその生き様は無くならないのだから。
ちなみに、私は夢をコロコロ変えてるが、それも人それぞれでいいと思う。私の場合は簡単に限界にぶち当たって挫折しているだけだから。
夢は良いものだと思う。夢を描いている瞬間が楽しい。追っている時は苦悩もするだろう。その中から成長もするだろう。自分を知ることもできるし世界も広がる。
ただし、他人から与えられた夢は危険だ。自分の内から作り出す夢を追ったほうがいい。
もう一つは夢が追えるのは幸せなこと。生きていくのに必死で夢どころではない人たちもいる。また、周りの環境から夢を追えない人たちもいる。
そして、夢を追うか追わないかはその人の自由だ。
とかなんとか徒然書いたが、今の私には夢が無い。
今までの延長線上で生きている。
強いて言うなら最近読んでいる中国の思想に出てくる聖人を目指すのが夢だ。
ただし、私が勝手に思い描く聖人だ。
そして、それは永遠に到達できない領域である。
もしその夢が描けたなら私は永遠に夢を追い続けれる。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
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