高山京子『Rebornについて Ⅱ』
なんとなく想うのが『Reborn』が来年の今頃にもまだ、おれのワークデスク上にあるような気がする。この詩集本は高山京子さんのものでもあるし、おれのものでもあるし、あなたのものでもある。人と人の繋がり。
たとえば、この記事を読んでいるあなたが不快になって閉じたとする。そこであなたは縁が切れたと思うだろう。絶交を言い渡せば、SNSでいうブロックをすれば、人との縁は切れるとお思いだとしたら、文学などという深遠にして異邦人のためにあるような文化には関わらない方がいい。人の縁はそう簡単には切れないし、おれの記事には相応の誰かへの呪詛や自身への赦しを込めている。全ての人間は完全なる一つである。『Reborn』にはその個々が不完全で欠片のような「わたし」と「あなた」の物語が満ちている。
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前置きとしてネット詩について書いておく。詩が好きでもないおれが7年間労力を尽くした詩の投稿掲示板の話。ありとあらゆる投稿作品を読んではコメントを書いた。月に200作品を読む。苦役だよ。知らない人の詩を読むだけじゃなくてね、コメントを書くの。なんでそんなことを「好き好んで」やっていたのか。「何も悪いことしていないのにわたしの作品を酷く言われた!酷い!」という感情を逆撫でする空間があったから、平たく言えばそういうこと。キリスト教の啓蒙運動に近い。常識的な振る舞いがなければ、あるいは他人を尊重しなければ、配慮ある発言を心がけなければ、人の縁は切れると思うでしょう?それはね、違うくてね、切れないんだ。人の縁は切れない。わたしがあなたを永遠に想い続ける時、あなたとわたしの縁は切れていない。そのことをネット詩で幾度も経験した。話は「わたし」と「あなた」のことに戻る。
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『Reborn』にある「わたしとあなた」は誰かの恋人であり誰かの旧友であり誰かの子供であり誰かの先生であり誰かの母親。詩句から立ち上がってくる「切れない縁」は高山京子が縁した固有の人々ではない。詩を読んだおれが縁する固有の美しい人たちだ。
『ねがい』という作品。「わたし」と「あなた」のことが平易に且つ深遠な思想として書かれてある。おそらくは高山京子の詩を平易すぎると評する人もいるだろう。「ぽえむ」と揶揄されることだろう。高山京子はこれを確信犯的にやっている。高山京子の来歴を知れば難解な表現などどうにでも書ける人だとわかる。つまりこの処女詩集本において最も優先されたこと、それは個人宛に書いたということ。おれのような漢字もろくに読めないもの宛の確信からなる行為。受取って欲しいでも読んで欲しいでもなくて、この詩集本をあなたが必然と求めているのだという確信。インテリジェンスな層からの賞賛を受けるためでなく、いうなれば瓶に詰めて海に流した手紙。願いごとを込めた、たったひとりへの手紙。
『ねがい』から一節を紹介する。
そしてみんなすべて砕け散って
最後に美しく降り積もればいい
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ここまで書いて、なんか、教条的過ぎると自分で笑っている。そう、まだ書けていない、書かなくてはいけない『Reborn』についてのことがある。先にも述べたけれども、収められたどの作品も平易な語句が用いられて書かれてある。けれども、どの作品にも哲学者が語るような一寸で真実を突く一言がある。真実とは?ってなるでしょう。それはつまりさ、五十五歳にもなるおれみたいな変なおぢさんの感情を揺さぶるってこと。いや、おれの例ではなくエミリーディキンソンの言葉でも思い出してくれ。
教条的でない哲学的な言葉ってね、経験でしか言葉に教訓は宿らないということ。だからさ、云うとね、生々しい実存がなければ詩人は観念に堕す。
いちばん美しくある前は
いちばん醜く汚いのです
『生きもの』より
死体になってみると
世間のいろいろなことがわかってきます
『曇りのち晴れ』より
自分を自分で殺すということは
他人を殺すこととおんなじだ
僕は誰かを殺すことなんてできない
したがって自分を殺してはいけない
以上、証明終わり
『考えろ』より
本物の青空は
本物の絶望のなかにしかないんだよ
『青空』より
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この詩集本を読み、ちょっとだけ詩についての気持ちが変化した。
ネット詩7年間のなかでおれなりに詩集本を読んできた。どう読んでもなんべん読み返しても個人的な半径1mの稚拙な表現でしかないと、そう吐き捨てる詩集本が大半だった、ような気持ち。そうではないんだと、もしかしたら深遠な宇宙が読めていなかったのかもしれないと、そう反省。レトリックが駆使され、詩誌で評価されるものではなく、「わたし宛に」書かれた詩と今までにも巡り会えていたのかもしれない。
テキスト論ではなくて作家論、人物像に土足で入り込む評をおれは書いていきたいし、技法ではなく思想、観念よりも感情のリアルさを汲み取れる人間でありたい。
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最後に。
あなたの書く記事やコメントは批評でもなんでもないと、インテリ系や詩の玄人さんたちから批判をよく言われてきたが、この記事もその批判対象ど真ん中の記事を意図して書いている。紹介者が対象作品より控えめでなければならないというその社会的マナーを文学に持ち込むのが嫌いだし、「作者を喜ばせるための批評」が嫌い。誰が書いたかわからねえ教科書文は面白くないし、小林秀雄が書いたと明らかにわかる批評は何よりも宇宙人みたいな人間らしい小林秀雄さんだろう。漢字が読めなくても、人間を宇宙を、感得していたいとおれは願って生きている。
またいつか『Reborn』について書こう。
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