AAEEの原点。 ネパールでのOKバジ一言「関先生は学生と一緒に輝く人です」
新潟の豪雪地帯に生まれ育った代表理事関昭典。大瀬が在学する名門上智大学に憧れながらも、それは雲の上を目指すも同然だった。一浪の末に地元新潟の大学に入学、以来20年間新潟市に暮らした。
「いつかあの山の向こうへ」
2007年、子どもの頃からの夢であった大都会、東京への切符を40代を目前に期せずして手に入れる。
しかし、東京での暮らしは想像を絶するほど過酷であった。冗談抜きで「生きるか死ぬか」を本気で考えることもあった。不眠、不整脈、うつ、あらゆる困難を経験しながらも、周囲にはひた隠しにして耐えたが、 一年半が経った頃、突然我を失った。養う家族のために辞職こそしなかったが、心身ともに限界を迎えた。
しかし、神は関を見捨てはしなかった。
2008年、職場の外国研修で学生を引率したネパールでとある人間と巡り合う。
OKバジ。本名、垣見一雅(現AAEEアドバイザー)。東京の大都会で生まれ育ち、早稲田大学を卒業後長らく高校教師をしたが、あるきっかけで1993年に突然退職。日本のすべてを投げ売ってネパールに移住。首都から数日間かけてようやくたどり着くような「秘境」に住みつき、村人と共生しながら草の根支援に没頭している。
バジはネパール語で「叔父さん」の意。ネパール語が理解できなかった頃、ひたすらOKと言いながら支援活動に取り組むうちに次第にそう呼ばれるようになった。長年の地道な支援活動が評価され、ネパールでは元国王から表彰を受け、日本でも吉川英治文化賞などを受賞した。出演したテレビ番組は数え切れないほどだ。
「あんな秘境に学生を連れていくことを許可してくれた今の職場には感謝の念に堪えない。しかし当時の私にとって、あれは学生を連れた逃避行だった。」
関はしみじみと振り返る。
70歳を目前にしたOKバジは縄文時代を彷彿とさせる環境で生き生きと暮らしていた。彼を取り囲むネパールの世界は自分とはまるで真逆に位置し、抱えていた心の闇に一筋の光をもたらした。「あのコミュニティに入りたい。あわよくばOKバジの後継者になりたい。」とさえ思うほどだった。
「間違いなく、あの旅で一番心動かされたのは僕だね。生き返った気分だった。」
学生を盛り立てるべき引率教員が自分の息を吹き返すなど本末転倒かもしれない。しかし、関はそれまでの自分の「小ささ」に気付き、OKバジとの出会いを境に確実に元気を取り戻していった。
以来、毎年のようにネパールに学生を連れて訪れるようになった。これまでに数多くの大学生が関と共にネパールを訪れたが、皆口を揃えて同じことを言う。
「ネパールにいる関先生と日本にいる関先生は別人だ」
それからというもの、関は密かなプランに考えを巡らしていた。
「大学教員の職を辞してネパールに移住し、OKバジに弟子入りする。」
目の前に立ちはだかる貧困に真剣に取り組む彼のようになりたい。自分も世の中のためになりたい。本気でOKバジに相談した。しかし、彼はあっさり答えた。
「関先生には、こんなに素敵な学生さん達がついているんですよ。信頼していなければこんな秘境までついて来ませんよ。関先生は学生さんと一緒に輝く人です。」
この一言が、関のその後の人生を決定づけることになる。
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次回、OKバジの言葉を受けて心が動かされた関が国際学生交流プログラムを作りあげるまでの過程が明かされる。
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